今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

不安と理由付け

(写真:足助町の路地裏 その1)

不安な存在

最近は北朝鮮が核実験と長距離弾道ミサイルの実験を繰り返しています。
明らかに日本を含む周辺国への示威行為だと分かっていても、誰もその実験を止めさせることはできません。
好き放題やらせておいて、すっかり舐められている。しっかりお灸を据えなくては、すぐに取り返しのつかないことになるぞ・・・そのように私たちは不満を募らせ、交渉国の弱腰に文句を言っています。
かと思えば、異常が日常になる気象の暴走。
本来ならば日本周辺の海面が熱帯低気圧を冷やして勢力を削ぐはずが、地球温暖化で温められた海水のせいで、台風が勢力を保ったまま日本を直撃しています。
しかも、その地球温暖化は、もはやいくら手を講じても進行は止められない所まで来ているとか。
まさに生産と消費のループの過程で資源を消費し、そこから排出されたもので人類をどんどん生きづらくしている破滅型社会が終盤を迎えようとしています。
いや、それよりも明日の生活が心配だ。仕事でがんじがらめにされ、人間関係で気持ちをすり減らす。
そうこうしているうちに、どんな病気に襲われるかも知れない。いや、今現在身体の中に巣くって、どんどん蝕んでいるかも知れないではないか。
・・・どうして、こんなに人生には不安な事案が溢れているんでしょうか。
このように、私たち人間はとても不安な存在なのです。

不安と理由付け

でも、「まだ起きてもいないことを心配しても仕方ない」と言う人がいます。
なぜなら、私たちの心配事の8割は実現しないのですから。
そもそも「不安」と言う言葉の定義は、まだ起こってもいないことを何とかしようと思って、それで心を悩ましている状態を言います。
と言うことは、不安に思っていることが実現しなければ、悩んでいるだけ無駄なのです。
古代中国の杞と言う国に、いつも「天が崩れ落ちてきたらどうしよう」と心配している人があったそうです。そこから、起きもしないことを心配することを「杞憂」と言うようになりました。
核ミサイルが飛んで来たらどうしよう。
福島の廃炉が上手く行かずに、日本全体が汚染されたらどうしよう。
ハリケーン級の台風が日本を直撃したらどうしよう。
明日、上司の虫の居所が悪かったらどうしよう。あの厳しいお客さんからクレームの電話が入ったらどうしよう。
そう考えたら夜も眠れない。
でも、起きるかどうか分からないことを悩んでも仕方ありません。
もし、現実起こらなかったら悩み損だし、そんなことに囚われている時間が勿体ない。
それに不安の種を探し始めたらキリがありません。
それこそ、道を歩いていて通り魔に襲われるかも知れない。タチの悪い集団に目をつけられて生活がムチャクチャになるかも知れない。車が突っ込んできて、グチャグチャに潰されるかも知れない。
少なくとも、これは核ミサイルが飛んでくるより可能性はありますし、上司に叱られるよりは重大です。
でも、私たちの心配は、なぜ今の心配なのでしょう。
私たちの深刻な不安が、これでなければならない確かな理由はあるのでしょうか?

真の原因を知る

私たちは、このように不安とその理由を必ずセットにしています。
しかし芥川龍之介は、自分の不安を「自分の将来に対する漠然とした不安」と表現しています。
芥川は、私たちと違い無理に不安の理由付けを試みていません。
私たちが不安の理由にしている8割の杞憂を取り去ってしまえば、後に残るのは正体の知れない「漠然とした不安」なのです。
芥川は、自分を誤魔化さずにこれに向き合い、私たちは他の理由を付けて直接の対峙を避けています。
その「将来に対する漠然とした不安」とは何でしょう。そして、芥川をして「人生は地獄よりも地獄的」と言わしめた不安の正体とは何でしょうか。
それこそが私たちがもっとも向き合うべき不安の正体であるはずです。

夢のまた夢の滝つぼ

人生は船に乗って川下りをしているようなものだと言われます。
川下りは、決して逆に進むことはありません。昨日から今日、今日から明日と常に一方通行で、逆もどりはできないのです。
私たちは、この時間の流れに船をしつらえて浮かんでいます。
そして、その船の中で勉強をし、就職をし、出世をします。また、結婚をし、家族を作り、子供を育てます。
地位や名誉を手に入れるのも、財を成すのも全て船の中のこと。もちろん金銀財宝を満載した宝船に乗って悠々と川を下っている人もいます。
たとえば、水飲み百姓から日本最高の太閤の地位まで上り詰めた豊臣秀吉がそうです。
大阪城、金の茶室、聚楽第と、まさに秀吉の晩年は黄金に彩られた輝く宝船の川下りでした。
しかし、その秀吉の船旅も間もなく終焉を迎えます。
それは最高位の太閤といえど逃れることのできない人間の死です。
その時、太閤秀吉は何とか言ったか。
「奢らざるものもまた久しからず
露と落ち、露と消えにし我が身かな
難波のことも夢のまた夢」
つまり、川下りの果てには誰しも例外なく滝つぼが待っているのです。その滝つぼには、いかなる黄金の宝船と言えど一たまりもなく飲み込まれてしまいます。
この滝つぼとは、私たちの逃れられない未来、すなわち死です。
まさに、死の滝つぼに飲まれんとする秀吉の魂の悲鳴が「夢のまた夢」だったのです。
芥川が、「自分の将来に対する漠然とした不安」と表現したのも、この確実な未来に対する予感だとすれば得心が行きます。
なぜなら、私たちにとって死は避けられない未来でありながら、普段は明確に不安の形を取らないからです。大抵私たちの前には、核ミサイルや癌、リストラなどの別の不安で現れるのです。
しかし、病気も真の原因を知らねば完治が無理なように、私たちの不安もこの死と言う根源的な理由から目をそらしている限りは除かれることはないのです。