今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

医は仁術なり

(写真:夜の街の怪獣 その2)

高度医療の陰で

医療の目的は延命です。
医療は、1分でも1秒でも人間の命を延ばすことに注力してきました。
おかげで、高度医療に支えられた日本は今や長寿世界一を誇るに至りました。
しかし、その長寿社会も曲がり角に来ています。
延命をして、日本人が長生きするようになれば、いわゆる支えられる世代がそれだけ増えることになります。
それに相まって、少子化や非就労者の増加で、支える世代の減少が進み、支えられる世代と支える世代のバランスが崩れつつあります。
しかも、今はまだその序章に過ぎません。
長命を実現するための医療技術は高度化し、それだけ多額の医療費がかかるようになりました。
使う側の高齢者は増え、支払う側の就労者は減りつ続けています。そして、その割合は急速に逆転しようとしています。
その差額は国庫から支出して賄わなければなりません。
今でさえ財源不足で、毎年国債を発行して借金を膨らませているのです。
そこへ、これから膨大な医療費の負担がのしかかるとしたら、果たして日本人は明るい未来を描けるでしょうか。
しかも、その問題が現実となり、日本がのっぴきならない事態に陥ったころ、私はまさに高額な医療費を使う側なのです。

延命の現場では

では、延命の現場はどうなっているでしょうか。
私は以前入院していた時に目を覆いたくなる光景を目にしました。
それは、入院しておられた方が医師や看護師に付き添われ、ストレッチャーに乗せられて搬送されていく姿でした。
90をとうに過ぎていると思しき高齢者で、身体中にチューブや医療器具を取り付けられていました。その様はまさに息も絶え絶えで、意識があるかも定かではありません。
もはや生きているというより、機械によって心臓を動かされている姿に等しかったのです。
そんな医療に何の意味があるのか?
ただ延命だけを目的にするのではなく、尊厳ある死を重んじる医療倫理の確立を目指すべきではないか、と言う論調もあります。
実際、延命が苦しみを長引かせているだけの印象を持つ人も少なくないでしょう。
しかし、もし自分がその身になったら、どうでしょう。自分に繋がれている延命装置を止めてくれ、と簡単には言えません。
いやひょっとして、重い病や、動かせない肉体の牢獄に責めたてられ、心身ともに疲れ果てたら、それを望むかも知れませんね。ただそれも、今の苦しみが酷いから、そこから逃れたい一心でそう思うのでしょう。

人の心と向き合う仕事

目の前に苦しんでいる人がいて、その苦しみを除きたいと思うのが、医療従事者の根源的な願いです。
そして医療を受ける立場からすれば、身体の苦しみと同時に、心の苦しみを除かれたいと願います。
私は小さな手術しか経験していませんが、麻酔で意識を奪われ、その間に身体を切り刻まれているのは嫌なものです。
麻酔から目覚めてまず考えたのは、「オレ、大丈夫なんだろうか」と言うことです。
手術が失敗して、とんでもないことになっているかも知れません。
人が聞いたら馬鹿な話ですが、手術を受ける患者の気持ちはそんなものです。
ましてや、それが命に関わっている手術ならどうでしょう。難病や、未来に灯りのない老いの苦しみによって、人間はどれほど不安で心細い思いを抱えるでしょう。そして、叫び出したいような感情を必死で押し殺しているのではないかと想像します。
その不安を緩和することは、肉体の苦しみを除く以上に大切なことです。
だから、医療従事者の仕事は、肉体の痛み以上に人の心と向き合う仕事なのだと思います。

医は仁術なり

高度医療は肉体の病を解決してきました。
反面、一時心のケアが置き去りになった時期もあったと思います。
しかし、近年肉体の苦しみだけでなく、患者や高齢者、そして家族の心の苦しみをどう緩和するかが盛んに議論されるようになりました。
いわゆるトータルケアと言う考え方です。
「医は仁術なり」と言われます。
「仁」は思いやりのことですから、「医は仁術なり」は「医療は、人を思いやる心で行う行為」の意味します。
人は物質だけでは癒されません。
物質以上に心を満たされたいと思う存在です。
どうすれば、相手の心を満たせるか。それには相手に対する深い関心と共感が必要です。
「医は仁術」とは、まさに肉体とともに心を救う医療の実践を目指したものです。
心のケアの大切さが叫ばれ始めた今、延命のみを旨とした従来の医療から、本来の仁術への転換点を迎えているようです。