今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

動かない誘惑を破る 〜批判者になるな、改革者になれ〜

(写真:午後のひつじ)

■動くものは叩かれる

いつも現場には問題が山積みになっています。
そして、誰もが困った、困ったと口にしています。「このままでは、いずれ立ち行かなくなる。今の内に何とかしなくては。」
口さえ開けば、私たちは一端の戦略家で、「こうすべきだ、ああすべきだ」「あれではいけない、自分ならこうする」と持論を捲したてる。
ならば、「志しのある者同士、現状を変えるために立ち上がろうじゃないか」となるはずですが、そこで問題が発生します。
それは、言うのと実際にやるのではまるで違うからです。
いざ、実行しようと思うと、そこには大きな壁が立ち塞がります。
まず、行動したい意思を会社に伝えなくてはなりません。そうすると、会社から求められるのは、行動に対するコミットです。
つまり、行動するためには時間やお金、人の資源が必要です。それを使う以上は費用対効果を求められるのは当然のことです。
しかし、行動に際して、そこまで詰めて詰めて声を上げる人は稀でしょう。
本心から言えば、「そこはやってみなければ分からない」です。だから、会社から甘い想定を突っ込まれ、散々叩かれ、泣かされて帰されるのが関の山なのです。

■動かないことは大人の知恵

「ああ、こんなことならば口にするんじゃなかった、目立つんじゃなかった。」
素直にその他大勢に紛れていた方が身のためだな。
正直、そんな気分になります。
例えば、こんな喩えはどうでしょうか。
・・・
海底には、数知れぬ微細な生物が暮らしています。しかし底まで潜っても、そこにひしめき合っている多数の生き物のことは分かりません。ただ、広大な砂地や藻の群生が見えるだけです。
ところが、一度砂地に足を下ろすと、砂を掻き立てて数多くの生き物たちが飛び出します。
つまり、そこにいる生き物たちは大きな魚の襲来に備えて、砂の下で見つからないように身を潜めていたのです。そして、動くこと、目立つことは命取りなので、ひたすら、自分たちの存在を殺して、敵の襲来が去るのを待ちます。
・・・
私たちも、こんな海底生物の気分かも知れません。
問題に対して、会社は誰かに責任を持たせようと常に担当者を探しています。
そこで目に止まったが最後、容赦なくコミットと、実績を求められる。
だから、問題が一応の収束をするまでは、目立たないよう、動かないよう息を殺して、その他大勢に紛れて生きよう、そんな気分になるのも無理はありません。
まるで、会社が私たちを餌食にしようと狙っている巨大魚のような気持ちになるのでしょうね。
そう、動かないこと、目立たないことは大人の知恵なのです。

■叩かれることが問題か、動かないことが問題か

動けば叩かれる、目立てば求められる。提案すれば、コミットさせられる。
だから、ついつい上の人から距離を置いて息を潜めて大人しくしようと思います。
そして、やるべきことさえやっていれば、無難に過ごすことができます。
肉食魚の視界に入らないよう、なんとか今日一日を過ごします。そうして、もう1日、もう1日、このまま今年逃げ切れば、そして定年まで逃げ切れば・・・。
必殺仕事人で中村主水が、跳ねっ返りの下役に言い聞かせるシーンがありました。
「一に要領、二に要領、三四がなくて、五に目立つな!」
情けない大人の生き方の典型のように思えます。しかし、果たして自分がその身になったら、情けないとばかりも言っておれません。
動かないことで、それで今の仕事、今のペース、今の立ち位置が守れるのなら、多少気概がないと謗られても受け入れよう。ひょっとして、今のポジションが脅かされるかも知れない。後輩から抜かれて軽く扱われるかも知れない。でもまずは仕事があって、そのストレスを解消できる休みがあって、きちんきちんと給料も入る。
それ以上、何を望むのか。
・・・確かに、それも良い生き方かも知れません。
しかし、人生の多くの時間を費やす職場にあって、叩かれると痛いから、皆んなの目に入らないように隅っこで大人しくしているだけでは命の使い方としては残念です。
それに、自らが挑戦して至った結果と、ひたすら動かずになし崩し的になった結果と、たとえ同じ結果に終わっても痛みの程度は同じですか?
そして、それが後悔の痛みだったなら、動いて叩かれた痛さと比べて、どちらがより我慢できないですか?

■批判者になるな、改革者になれ

動いた痛みは一瞬です。
しかし、動かなかった痛みは長く自分を苦しめます。
「もっとこうすれば良かった」
「もう少し頑張れば良かった」
さながら、異性への告白のようです。
異性に告白するのは、恥ずかしいことですし、勇気も必要です。
でも、その勇気は一瞬ですし、相手にされず悔しい思いをするのも一時です。
むしろ、今一歩の勇気が出せず、他の男性のもとに行ってしまったら、その後悔はしばらく後を引きずります。
本当は動かなければ後悔することを理解しているのです。ただ、目先の痛みに負けて、ついつい動かないことを選択してしまう。
当然、結果は出ないし、誰かに先を越されて悔しい思いをします。
ただ、素直にそれを認めるのが悔しいので、最初から全てお見通しとばかりに「あんなの大したことないさ」と批判者になる。
そして、少しでも自分を賢く見せようとするのです。
反対に、自ら痛みを求めて動く人は、ひょっとしたらあまり賢そうに見えないかも知れません。
私自身、周りから「なんで、あそこで余計なこと言うかな」と言われます。
「そこは、言わでもがなで、黙っていれば過ぎたんじゃないの?」
そうかも知れません。
ただ、叩かれた痛みは一瞬です。恥をかいても一時我慢すれば良いのです。
そして、叩かれて痛かった見返りに学びを手に入れました。
時に改革者とは、批判者に比べてみっともないし、スマートでもありません。しかし、本来すべきことをせずにジッと我慢して、認知的不協和音に苦しむよりは、動いて恥をかく。痛いのは嫌ですが、むしろその方が自分の性分にあっているようです。