今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

認知的不協和音 〜何に縛られるか〜

(写真:夜のモリコロ)

■認知的不協和音とは

認知的不協和音とは、人間が自分の中で矛盾する認知を同時に抱えたことを言います。
すると、その状態は非常に不快なので、それを解消するように行動を起こします。
有名なのが、イソップの「キツネと葡萄」の話です。
ある時、キツネが木の高いところに実をつけている葡萄を見つけました。
キツネはとても葡萄を食べたかったのですが、とても高いところの葡萄には手が届きません。
それでキツネは「どうせ、あの葡萄は酸っぱいさ」と言ったとか。

■キツネの理屈

キツネは、葡萄を食べたいと言う気持ちと、高いところにあるから願っても無理と言う現実の間で、矛盾する認知を同時に抱えていました。
そして、それをそのままにしておくのは、キツネにとって非常に気持ちの悪いことです。
だから、その矛盾を解消するように理屈を考えだしました。
つまり、「どうせ、あの葡萄は酸っぱいさ」です。
『手に入らないもの=ツマラナイもの』
私たちは、そのように理屈をつけて自分を納得させることがあります。
例えば、メジャーリーガーになりたい、そんな夢を見たとします。しかし、運動音痴の自分には、とても叶う夢に思えません。
そこで、日本の優秀な選手がメジャーに挑戦しては、次から次と夢破れていることを引き合いに出して、どうせ叶う夢じゃないし、無駄な苦労をしなくて良かったと納得しようとします。
あるいは、もの凄い美人の同僚がいたとします。誰もが、彼女にプロポーズしたいと思うはずが、意外にずっと独り身だったりします。
なぜでしょうか?
そこにも、認知的不協和音が関係します。
美人の同僚、そして、とても自分では手が届かない高嶺の花。そんな矛盾を抱え続けるのは、とても辛いことです。
だから、大抵の男は挑戦する前に理屈をつけて戦線を離脱します。
「どうせ、あんな美人だから、きっと凄いフィアンセがいるよ。」
そうして、自分の中の不協和音に対処するのです。
しかし、中には勘違いして果敢にチャレンジをした結果、堂々と彼女のハートを射止める男もいます。別にいい男だった訳ではありません。ただ、不協和音の解消の仕方が、諦めるのではなく、彼女を獲得する方向に行動しただけです。

■自己否定

世の中で夢を叶えているのは、意外にこんな人たちかも知れません。
大きな目標にぶつかったとき、なりたい自分となれない自分の不協和音を続けることはできません。だから、理屈をつけて目標を回避するか、あるいは果敢に挑戦するかのいずれかです。
もちろん、挑戦して夢破れることも多いのですが、挑戦をしなければ夢が叶うことはありません。
大きな目標にしろ、小さな目標にしろ、このように理屈をつけて、早々と挑戦を回避していないか、一度振り返ってみたいことです。
また、挑戦を回避しても、それが新たな認知的不協和音を生むことがあります。
昔、西遊記と言うドラマがありました。
ご存知の通り、三蔵法師と、孫悟空、猪八戒、沙悟浄の話です。
三蔵法師は、兄弟子の孫悟空には厳しく、弟弟子の猪八戒には甘くなりがちでした。
猪八戒は、それを良いことに都合が悪いことがあると、すぐ兄弟子の孫悟空の所為にして三蔵法師に言いつけます。
すると、聡明なはずの三蔵法師も、それを間に受けて孫悟空を折檻するかと2度、3度。
ついに、さすがの孫悟空も頭に来て、「こんな分からず屋のお師匠には付き合い切れない」と筋斗雲に乗って花果山に帰ってしまいました。
悟空は、苦しい天竺の旅から解放されて、思う存分猿の王様を満喫しました。しかし、同時にそれを鬱々として楽しまない孫悟空もいたのです。
それは、今まで情熱を捧げて仕えてきた三蔵法師との旅を投げ出すことが、孫悟空にとっての自己否定になるからです。

■正しく信念を育てる

五百年の五行山のいましめから解放してくれた恩義もあります。また、大衆に大乗教典を持ち帰りたいと言う三蔵法師の志にも共感していました。
それが、孫悟空の信念であり、長い間三蔵法師と苦楽を共にできた原動力でもあったのです。
それを三蔵法師に非があるにせよ、途中で投げ出すことは孫悟空にとって、認知的不協和音の原因でした。
そのため、三蔵法師の危機に、恥を忍んで助けを求めてきた猪八戒を深く責めず、筋斗雲に乗ってまた法師のもとに馳せ参じるのでした。
・・・
私たちは怠惰なものです。
価値ある挑戦と分かっていても、それが難しくなると理屈をつけて挑戦の気持ちを折ってしまいます。
いわゆる「酸っぱい葡萄」で認知的不協和音を解消しようとするのですが、もし私たちにそれ以上の信念があれば、一度はたたんだ挑戦の翼を再び広げることができます。
難しくても、なんとかなんとかと私たちを進ませるのは、長い間培った信念と、それによって生み出される認知的不協和音なのです。