今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

慈悲 〜苦にあるものに於いて偏に重し〜

(写真:高岡の夜明け その2)

■慈悲

親の慈悲、母の慈悲、仏の慈悲。
「慈悲」は「慈」と「悲」の二つの意味で出来ています。
「慈」は、今苦しんでいる人の苦しみを除きたいとも思う心です。例えば、目の前に病気で苦しんでいる人がいれば、医者は何としても助けたいと思います。また、子供が一人で悩みを抱えて苦しんでいたら、親ならその苦しみを取ってやりたいと思うでしょう。
「悲」は、楽しみを与えて幸せにしてやりたいと思う心です。外出先で特別なお菓子を貰った親は、子供の喜ぶ顔が見たくて、そのままカバンにしまって持ち帰ります。
そんな苦しみを除いて、楽しみを与えたいと思う心が慈悲です。
また、慈悲には、小慈悲と大慈悲があります。
小慈悲は、人間の慈悲のことです。
なぜ、小さい慈悲と言われるかと言えば、一つには人間の慈悲は盲目の慈悲だからです。
親の身ならば経験があると思いますが、子供の喜ぶ顔が見たくて、求めに応じて好きなものをどんどん与えた結果、逆に子供を不幸にすることがあります。つまり、慈悲をかける時、その結果を見通す知恵がないのです。
二つには、狭い相手にしかかからない慈悲です。どんなに哀れな子供が近くにいても、自分の子供と全く同じように慈悲をかけるのは無理です。
三つには、続きません。悲しいかな、東北や熊本で地震が起きた当時のような気持ちは、今もう続いていません。自分の子供を亡くした悲しみですら、時と共に薄らいでいくのです。

■岸で戯れる子供よりも

それに対して、仏教で教えられる仏の慈悲は大慈悲です。
智慧に裏付けられた慈悲であり、全ての人に対する平等の慈悲です。そして、時間に色褪せることのない普遍の慈悲なのです。
そして、仏様の大慈悲心は、「苦あるものに於いて偏に重し」と説かれます。
それは、今苦しんでいるものにこそ強くかかる慈悲です。例えば、岸で戯れる子供よりも、川で今まさに溺れ苦しんでいる子供を救おうとするのに同じです。あるいは、健康な人よりも、今病気で苦しんでいる人から救おうとする医者に同じです。
芥川龍之介が『蜘蛛の糸』の小説に描いているように、血の池地獄で最も苦しんでいた極悪人のカンダタに、お釈迦様は真っ先に蜘蛛の糸を垂らされています。

■苦しんでいる人を視界に入れる

それに対して、やはり小慈悲の悲しさか、私たちの視界には、本当に苦しんでいる人は入っていないようです。
『もし世界が100人の村だったら』で描かれたように、今日本で生活している私たちは、誰もが世界の大多数の人たちより恵まれています。むしろ、そのような圧倒的大多数に支えられて、ごく少数が今のような恵まれた生活を享受できると言うべきでしょう。
私たちが日常的に口にしているチョコレートの原料であるカカオ豆、それを生産する子供たちは、一生チョコレートを口にすることはありません。
安価に手にすることができる衣類や毛布、海外の縫製工場でそれを生産している人たちは、毎日長時間働いても自分たちが作っているものを買うことができないのです。
そう、世界は不平等な場所です。
そして私たちは、この世界で善良な市民としての意識を持ち続けるために、意図的にこの不平等な構図から目を逸らして生きています。
言わば、精肉工場で日々屠殺が行われても、きれいにパック詰めされた製品を口にする私たちに罪の意識がないように、店頭に並べられた商品をお金を出して購入しているだけの私たちには、その裏にあるストーリーを知る由もないのです。

■行動する人たち

その中、自ら行動を起こす人がいます。
従来の医療は病院を開業して、診療時間を告知し、そこに通って初めて治療を受けられる宅診でした。しかし、それでは病院に通う力のない人は助かりません。
だから、医療従事者が自ら病人のところへ出向き往診をします。いわゆる在宅医療です。
これから、ますます高齢者の数が増え、病院のベット数が不足する中、地域住民が連携して在宅医療を実現することが求められます。
同様に、自分たちの目や手の届く範囲ではなく、自ら支援が必要な人たちのところに出向いて活動する人たちがいます。
それは、企業の協賛を受けた活動もあれば、非営利団体、いわゆるNPOもあります。また、個人のボランティアもあります。
中には、自分の仕事や身の回りのことをほっておいてまで、活動に没頭する人もいるでしょう。
そんな時に回りの人は「自分のこともキチンとやれないくせに、人の心配をしている場合か」と言います。
しかし、彼らは目の届く範囲の幸せな人たちより、皆んなの視界に入らない、そしてより苦しんでいる人を助けたいと思うのです。
「遠くの誰かを感動させるためには、近くの誰かに嫌われなくてはならない」と言った人がいます。
一番苦しんでいる人を助けるために、時に近くにある幸せは後回しにしなければならないのでしょう。
行動する人たちのそんな志に頭が下がります。