今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

残る仕事、残らない仕事 〜お金にならないけど価値ある仕事〜

(写真:冬空)

■仕事の価値基準

「頑張っているね」と声をかけられる。
「いや、1円にもならないことばかりでね。
少しは金になれば良いのに。
お金を稼がないヤツは昔から穀潰しって言われるしさ。」
すると、
「いや、お金になるばかりが仕事の価値ではないよ」と慰められる。
「そうかな。」
「そうさ、生きている時にお金をたくさん稼いだけど、死ねば元の木阿弥みたいな人はたくさんいるよ。
反対に、生きている時は貧乏続きでも、その仕事が後世まで評価されている人もいるだろ。
だから、稼げたか、稼げなかったかは余り重要じゃないんだ。」
「有り難う、いいエールだね。」

■お金になるけれど、すぐに忘れられる仕事

一時、勝ち組、負け組と言う言葉が流行りました。
会社ならば、時流に乗ってどんどん業績を伸ばすのが勝ち組、時流に乗り遅れてすっかり萎んでいるのが負け組。
個人ならば、当時で年収1千万以上貰っていれば勝ち組意識を持ち、はるかに届かなければ負け組と落ち込んでいました。
要は、お金が基準です。
実入りが多ければ、良い服を着て、良い車にも乗れる。街角で高級車に乗っている奥さんを見かける度、さぞや旦那さんの給料は良いのだろうな、と羨望の眼差しを向けてしまいます。
あそこの息子さん、年収1千万ですって、と聞かされる度、我が身と引き当てて惨めな気分になる。
いや、年収と仕事の価値は関係ないはずですが、給料が良いと聞くと仕事の内容まで立派に思えてくるから不思議です。
でも、一生涯で何億も実入りがあっても、実際は稼いで終わり、人の記憶に残らない仕事はあります。
例えば、映画「プリティーウーマン」でリチャード・ギアが扮していたエドワードは、企業を買収しては、バラバラにして高値で売り捌く買収屋。それで大変な実入りをあげて、実業界の超セレブともてはやされていました。
そのエドワードが、歴史ある造船会社に買収を仕掛けた時、ジュリア・ロバーツ扮するビビアンにポロッと漏らした言葉があります。
曰く、
「僕は何も造っていない。」

■お金にならないけど残る仕事

方や歴史ある造船会社、時代の波に呑まれて経営は行き詰まっていましたが、彼らが造った多くの船は世界中で立派な仕事をしています。
方や、エドワード。
企業を買収して、付加価値を付けて売り捌く。多額のお金がエドワードの前を往き来しますが、果たしてエドワード自身が消滅した後、誰か彼の仕事を覚えているでしょうか。
そんな思い故のエドワードの独白だったのでしょう。
・・・
では、お金にならないけれど残る仕事とは何でしょうか。
分かりやすいところでは、生前は全く評価されなくても、死後高く評価されている芸術家がいます。
例えば、お札になっている樋口一葉。彼女の短い生涯は生活苦との戦いでした。そして、有名な「たけくらべ」が評価されたのはその晩年だったのです。
宮沢賢治も生前は無名で、生きている時に出版されたのは「春と修羅」「注文の多い料理店」だけでした。
いまや、絵画が何億で取引されるゴッホやゴーギャンも、生前はお金には恵まれていません。
しかし、いずれも後世まで長く仕事が評価されている人たちです。

■本当の対価とは

また、そんな名前が残る人だけではありません。
たとえば、救急隊員や、消防隊員のような人は、周りが驚くような高給な訳でも、また後世まで名前が残る訳でもありません。
しかし、彼らがつないだ命は、そこからずっと繋がって 広がっていきます。
彼らが助けたたった一つの命、その命が子や孫に受け継がれ、今の何十、何百と言う命のもとになっています。
そう考えると、世間が評価したり、お金が稼げたりすることと、仕事の価値は関係ないことが分かります。
そして、評価やお金が貰えるか貰えないかではなく、自分の仕事そのものに誇りが持てたらどんなに良いでしょう。
自分も、会社でお金を貰ってしている仕事。
無償で誰かのためにしている仕事。
そして、頼まれもしないのに毎日流しているこのような投稿があります。
確かに、いずれも広く評価されたり、お金が稼げている訳ではありません。
しかし、どこかで誰かの笑顔に繋がっているならば、それこそ本当の仕事の対価です。
それが心底自分の誇りと思えるまで、研鑽を怠らず頑張ります。