今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

悪果を怖れる

(写真:那覇の海 その1)

■勝手な相済み

車で深夜走っていると、赤信号を思わず突っ切りたくなります。
明らかに車は来ていないし、少しでも早く目的地に着きたい。
そして、何より周りに警察がいない。
あるいは、人気のない駐車場で人の車に擦りそうになった時、本当に擦ってしまったらどうするかを考えます。
いつ来るか分からない車の所有者を待って詫びをいれるか、あるいは、素知らぬ顔をしてそのまま行ってしまうか。
同乗者がいれば、そんな最低なところを見せたくないから、いい格好するかも知れません。
しかし、その車に擦ったのが自分だと他に誰も知らなかったら?

■消えない種まき

私たちは、人にバレなかったら、それをいいことに勝手に相済みにしています。
もちろん、正直に何でも告白する人はいるかも知れませんが、それは相当な人です。
自分にとって都合の悪いこと、あるいは評価を下げることは、もし誰にも知られていなければそのまま相済みにしたい、そんな強い誘惑にかられます。
また、何でも正直に申告していると世の中にたいへんな波紋を生むことがあります。例えば、私たちの足元で進行していた恐ろしい某略を公安が未然に防いだ場合、混乱を避けるために大抵は伏せられるのではないでしょうか。
黙っていれば済むことをわざわざ告白して波紋を起こしたくない、そんな理屈もあって、自分の都合でいろんな相済みを勝手に作ります。
しかし、小さな嘘や隠ぺいでも、それだけではおさまりません。
嘘でできた綻びは、さらに大きな綻びを生み、また嘘を呼ぶ。
また、その嘘がもっと大きな綻びを作る。
そして、その時点ではもう引き返せないので、破綻まで一気に進んでしまいます。
もちろん、黙っていればバレないし、そこまで詮索されないことは多くあります。しかし、勝手に相済みにした負い目は、結局私たちの心の負担になるのです。

■火鉢の灰

人相手なら、バレなければその場限りで済みます。そして、私たちは、そのように嘘や誤魔化しを普通に受け入れて生きています。
しかし、公費の不正流用や、食品偽装問題に見られるように、嘘や誤魔化しの程度はドンドンエスカレートし、深刻になります。
そんな私たちに、経典ではこのように教えられています。
『夜どんなに燃え盛っていた火鉢の炭も、朝になると白い灰が覆って、まるで火が消えたように見える。しかし、その灰の下には真っ赤な火が消えずに燃え続けているのだ。
ちょうどそのように、私たちの悪業も決して消滅することなく、気づかぬところで赤々と燃え盛っているのだよ。』
恐ろしい言葉です。
火鉢の表面を灰が覆って消えたように見えるとは、私たちのしたことが人にバレずに済んでいる状態です。そして私たちは、これでもう相済みになったとばかり安心しようとします。
しかし、蒔いた種は必ず生える。どんな小さな種まきも、それが結果を生ぜずに消滅することはありません。
たとえば、夜間信号無視を繰り返し、それが警察に咎められずにずっと無事に過ごせたとしても、ある時積もりに積もった種まきが一斉に火を噴いて大事故を起こすかも知れません。
そして、そう思い当たることが世の中にはたくさんあります。

■悪果を忘れない

すぐに結果が出ないとついつい安心します。
いや、もう自分は悪果とは関係ない、それを超越した存在と思ってしまう。
例えば、喧嘩が強かったり、威勢が良い人がいます。喧嘩が強いから、相手から殴り返されません。
そうして、一方的に人を支配できたとして、果たして人を殴ったり傷つけた種まきの結果はもう現れないのでしょうか。
よく映画で出てくる腕の立つ主人公は、やってもやり返されないので、いわば絶対強者であり、絶対善です。
しかし、身に人を殺めた種まきを溜め込むから、縁が来た時の結果は恐ろしいものです。
年がいって弱くなった時に、かつての仇敵から八つ裂きにされるかも知れません。(ただ、映画ではそこまで描かれませんが)
とは言え、人間である以上自分より弱い生き物を支配して生きていますし、その血肉を喰らいます。また、嘘をつくことも、争いをすることも避けては生きられません。
その意味では、悪果からは逃れることはできません。
しかし、私たちの行動一つ一つが種まきとして確実に残り、いずれ悪果を引き起こすことは常に意識しなければならないことです。
そうしないと、無意識のうちに悪業を溜め込んで、破滅への一本道に歯止めがかからなくなります。