今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

不器用さの利点

(写真:ナイト・オブ・OSAKAステーション その2)

■器用と不器用

できれば、「器用だなあ」と言われたい。
「不器用だなあ」と言われると気が沈む。
でも、その器用、不器用の差は何でしょうか。
一つは、視界の広さだと思います。
器用な人は視界が広く、不器用な人は視界が狭い。
車の運転にたとえてみれば分かります。
視界の広い人は、周りから進入する車や、後続から追い越そうとする車がよく見えます。横断歩道を渡ろうとする歩行者もきちんと目に入れて、余裕のある運転をします。
乗せてもらっても、急発進、急減速、急ハンドルがないので、気持ち良く同乗できます。
反対に視界の狭い人は、周りが見えていないので、一緒に走っている車がどんな動きをするかが想像できません。だから、前の車が軽くブレーキランプを点灯させただけで、驚いてブレーキを踏み込みます。そして、何度もぶつかりそうになって、さんざん懲りているので、ますますぎごちなく、ハンドルにしがみつくような運転をするのです。

■シュリハンドク

同じように、器用な人は周りの状況がよく分かるので、辛い状況に陥らないようにうまく自分をコントロールできます。
反対に、不器用な人は、ただまっすぐ走ることに集中して、結局厳しいところ、厳しいところへと自分を追い込んでいきます。
ただ、厳しい状況をたくさん経験しているので、足腰が鍛えられて、結構馬力がついています。
〜・〜
昔、印度にシュリハンドクという人がいました。
あまり賢い人ではなく、周りからさんざん馬鹿にされていました。そして、ついに実の兄からも見捨てられ路上に放り出されてしまったのです。
先行きが不安で途方にくれるシュリハンドクは道端に立ち尽くして、さめざめと泣いていました。
ちょうど、そこに通りかかられたのがお釈迦様でした。
「これ、そなた、何をそんなに泣いておるのだ。」
優しいお釈迦様の問いかけに、シュリハンドクは、
「実は、私は生来の愚か者で、あまりに馬鹿なので、ついに兄にまで捨てられてしまったのです。」
「そうか、しかし、みんな自分のことを知らないだけで、愚かなのは誰も同じなのだ。その点、自分を愚かだと知っているお前は、それだけ仏の悟りに近いのだよ。」
そう、お釈迦様はシュリハンドクを励まして、彼を連れて帰られました。

■垢をのぞかん、チリを払わん

シュリハンドクを連れ帰った釈迦様は、早速彼に一本の箒を渡し、「チリを払わん、垢をのぞかん」と言う言葉を授けられました。
「良いかな、毎日ここで『チリを払わん、垢をのぞかん』と唱えて、一心に掃除をするのだ。」
その言葉の通り、シュリハンドクは与えらた言葉を唱えながら、毎日一心に掃除を行いました。
しかし、生来の愚か者のシュリハンドクは、「チリを払わん」を覚えたら「垢をのぞかん」を忘れ、「垢をのぞかん」を覚えたら「チリを払わん」を忘れます。そして、そんなことを繰り返しながら掃除に明け暮れて、20年が過ぎていったのです。
その間、シュリハンドクは一度だけお釈迦様から褒められたことがあります。
「お前は何年経っても少しも上達しないが、それに腐らずよく続けている。これは他の弟子に見られない殊勝なことである。」
そして、お釈迦様のお弟子になって20年が経ったころ、埃が日頃気付かないところにも溜まっているのを発見したシュリハンドクは、
「俺は日頃、自分のことを馬鹿だ、馬鹿だと思っていたが、自分の気付かないところにどれだけ愚かなところがあるか分かったものでない」と驚いたのです。
かくして、シュリハンドクは阿羅漢の悟りを開いたと伝えられています。

■不器用さの効用

ただ掃除三昧で20年。
なあんだ、掃除か。
もっと人に誇れることがしたい。
普通、そう思うでしょうし、ましてや20年そればかりでは、とても耐え切れません。
しかし、他に何をする知恵も無かったシュリハンドクは、「チリを払わん、垢をのぞかん」と繰り返して、掃除をするしか選択肢がなかったのです。
そして、お釈迦様の指導と、それを愚直に守った長年の精進努力によって、シュリハンドクは高い悟りを開き、釈迦の10代弟子の一人に数えられています。
確かに、人間器用な方が楽だし幸せにもなれます。
しかし、よく言われるのは、「不器用な人は深い」。
迷いがない。
人と比べて沈んだり浮いたりもしない。
ただ、自分ができること一つに思いを定めて、確実に一歩一歩歩いていきます。
その歩みは、決して早いものではなく、むしろ人から見たらガッカリする程度のものかもしれません。
しかし、人が横を向いている間も、ただまっすぐ、休みなく歩き続けます。
その道は、苦労に満ちたものかも知れませんが、その分足腰が鍛えられて、より強くてしっかりとした足取りとなります。
そして、気がつけば、いつの間にか私たちの手の届かないところにまで行っています。
ただし・・・、それはたった一つのことで、かも知れません。
それでも良いのです。
多くのことに秀でる人は重宝がられ、たった一つのことに深く秀でる人は尊敬されるのですから。