今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

障害は不便ではありますが、不幸ではありません

(写真:高蔵寺ニュータウン)

■NHK夜の番組

夜中にテレビをつけっぱなしにして、NHKの教育放送を見ていた時のこと。
零時を超えた頃に、いきなり賑やかなバラエティが始まりました。
歌番組かトーク番組かな、と見ていましたが、スタジオの中にどうも違和感がありました。
番組の中心メンバーは健常者です。しかし、スタジオにいるそれ以外の人はいずれも重度障害者の人たちでした。
酸素吸入器をしている人も何人かいます。
普通、これらの人たちは施設や病院にいて、我々の世界からは隔絶された存在だと思っていました。
それを公衆の前に、しかもバラエティ(笑いあり)に連れて来て、スポットを当てているのですから、度肝を抜かれる以前に、ついに日本もここまで来れたのかと言う感慨が湧いて来ました。

■障害者を見せ者にするな?

番組の名前は「バリバラ」。
バリバラとは、バリアフリーバラエティの略です。
ここで言うバリアとは、社会的少数派、あるいは弱者、いわゆるマイノリティが抱える問題を指します。
特に生まれ持っての障害は、本人の責に帰することができないにも関わらず、社会生活や日常でいろいろな不自由を強いられています。
その弱者の抱える問題を少しでも無くしたいと、様々な角度から一石を投じることを目的に製作された、NHKの意欲作です。
相変わらず、NHKが社会の禁忌事項に触れるような放送をすると、「へえ、国営なのに凄いね」と驚きの目で見られます。
しかし、今一番自由にいろいろな社会的タブーに切り込んでいるのはNHKでしょう。
そして、おそらくそれはスポンサーに縛られていない中立性と、国民の期待に後押しされているからなのでしょうね。
もし民放なら、「障害者を見せ物にするのか?」と言う一部の声を怖れて二の足を踏んでしまうと思います。

■彼らだって主張したい

「バリバラ」は、番組のあり方だけでなく、内容もどんどんタブーに切り込んでいます。
障害を抱える芸人が登場して、そのキャラを生かして笑いをとります。
確かに、障害者の人は私たちと同じように喋れたり、行ったりはできません。もの凄く難しい顔で、時に青筋までたてて、懸命に取り組んでいます。
それを滑稽と言えなくは無いのですが、今の日本でそれを笑う人はありません。何故なら、如何に本人が真剣なのかをよく分かっているからです。
しかし、その滑稽な仕種をむしろ笑いに変え、またスタジオのメンバーの笑いを取る。
正直、見ている我々視聴者の方がヒヤヒヤします。
「え、いいのこれ?」
しかし、障害者の方がよく語っている言葉があります。
「障害と思わないで欲しい。これは個性なんだ。」
面白い顔や話術の人がお笑いの世界に進むように、障害を武器としてお笑いの世界で戦おうとしている。
おそらく、障害者としてではなく、等身大の自分をそのまま受け入れて貰いたいんでしょうね。
障害者だって主張したいのです。

■障害は不便ではありますが、不幸ではありません

この番組は、障害者を持った人の日常や、お笑いの放送ばかりで終始しているのではありません。
かなりきわどいタブーにまで踏み込みます。
驚いたのは、「障害者の性の問題」の回。
驚きはしましたが、言われてみれば当然です。
健常者だって障害を持った人だって腹が減る。腹が膨れれば眠くなる。
それは、人間として生きている以上等しく起きる生理的欲求です。
そこに来て、性欲だけは別扱いするのが不条理なのです。
私たちは、日頃性欲など無きが如き顔をして生きています。しかし、それは聖人君子の仮面をかぶっているくらいお互い分かりきっています。
仮面を一枚剥がせば、お父さんだって、娘と同年代の女子高生に目のやり場を困っている。違いますか?
下世話な話をすれば、性処理の問題は障害者だって同じです。それを、さも無きが如く忌避しても、おそらく真のバリアフリーにはなりません。
だから、この「バリバラ」も堂々と踏み込むのです。
かつてナチス統治下のドイツでは、民族の浄化と称して、ユダヤ人同様に障害者も抹殺しようとしました。
私たちは、障害者を不幸な人とみなして、特別な存在に扱います。しかし、程度の差こそあれ、その人たちを不幸な人と一括りにする心は、民族浄化を歌ったナチスに通ずるのではないでしょうか。
「障害は不便ではありますが、不幸ではありません」
障害と言うハンデを負っても、たった一度の人生です。その価値は変わりません。
ならば、不幸と思ったり、思われたりすること自体が、その人生の価値を損なっているのではないでしょうか。
そして、マイノリティの人たちにも、等身大の一個の人間としてスポットを当てている「バリバラ」の試みこそ、今後も応援したいと思うのです。