今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

実証責任、行動責任

(写真:眼下の宵の街)

■一石を投じた責任

新しもの好き。
どこにでも一人はいるものです。
せっせと新しい知識を仕入れては一人溜め込んでニンマリする。
ただ、溜め込んだだけでは済まずに、人に教えて「へえ」と言って貰いたい。
人間は自己顕示欲の塊りなのです。
しかし、新しもの好きが拾って来るものは、皆んなの関心と少々ズレています。
例えば、現場はキャパを超えた仕事に、残業、残業で苦しんでいます。そこに、ワークスタイル改革を聞き込んだ人が、モバイルワークやテレワーク、フリーアドレス制を盛んに提案し始めます。
ただ悲しいかな、いきなりそんなことを言われても皆んなとても頭がついて行きません。
いや、新しいことに目を向けるのは、決して間違ってはいません。かのアマゾンの創設者も、「迷ったら100年後を考えよ」とアドバイスしています。
今は現実味がなくても、100年後、いやそれどころか5年後には当たり前になっているでしょうから。
しかし、なんとなく冷淡な現場の反応に会って、新しもの好き氏は愚痴が出ます。
「非協力的」とか「向上心がない」とか「勉強不足」とか。
でも、そんな繰り言を言っていても何も前には進みません。一石を投じた以上、先に進める責任は提案者自身にあるのです。

■口だけで言うな!

「それだけではやりたければ、まずは自分が証明してみせろよ。」
正論です。
まずは、やりたい人間がやれば良いのです。
しかし恥ずかしながら、そこでグズグズします。
「そんな、俺一人でどうしろって言うの。皆んなが良くなることだろう。だから、皆んなでやろうよ。」
要は、自分一人でやる自信がないから、最初から人のヘルプを当てにしていた訳です。いや、もっと情けないことに誰かを乗せて、その気になったら、頭を取って貰おうとさえしていた。
「なあんだ、またか。口だけで言うなよ!」と、かえって周りの信用を失ってしまいます。
志やよし。でも、口で言っているだけでは何も起きません。
ここは、「自分が言い出しっぺだから」と覚悟して、自ら泥水すする覚悟がいりますね。

■猫の首の鈴

イソップに、このことを教えた有名な話があります。
ある時、ネズミたちが広場に集まってガヤガヤと議論しています。
議題は、彼らの天敵の猫をどうするかです。
「昨日も、おとといも、あの猫めに仲間が食われた。このままではオチオチ安心して生活などできやしない。なんとかならないか。」
「皆んな餌を漁っているところをやられたんだ。もし、猫が近寄って来たのが分かれば、捕まる前に逃げおおせるのに。」
「猫が近寄ってきたのが分かれば・・・か。そうだ、猫の首に鈴をつけてしまおう。そうすれば、近くに来たらチリンチリンと鳴って分かるに違いない。」
「そうだ、それは良い。賛成!」
「僕も賛成!」
かくして、ネズミたちの議会は猫の首に鈴をつけることで決しました。そして、長らしいネズミが全員に呼びかけました。
「さて・・・では誰が猫の首に鈴をつけに行く?」
そこで、湧いていた会場はパタッと静まりかえりました。さらに、誰一人、猫の首に鈴をつけようと名乗り出るものは現れなかったのです。
かくして、せっかくのアイディアも沙汰止みになったと言います。

■実証責任、行動責任

せっかくのアイディア、前向きな意見。
新しもの好き氏の勉強も、それを実際に動かさなければ絵に描いた餅です。
アイディアは良いんだ。ただ、皆んなの意識か低いんだよ。
それは分からないでもないのですが、では反対に人の持ち込んだアイディアに対して、私たちの反応はどうでしょうか?
暇な人などいないのです。皆んな目の前のことで精一杯です。
結構一生懸命説明しても、「分かったから、そこ置いといて」と素っ気ないものです。
つまり、余程自分に分かりやすくメリットがないと人の心は動かないのです。
そして、そのメリットを証明しなければならないのは提案者自身です。
新しいものに触発されて、熱に浮かされたように周りに働きかける。それは、情報提供と言う行為です。
しかし、それを動かしたいと願えば、今度はそのメリットを証明しなければなりません。
つまり、立証責任が発生します。
その立証の為に、さらに身体にかけて行動をしなければならないのです。
すなわち行動責任です。
「猫の首に鈴をつける」
どんなアイディアも、まず行動しなければ生きません。行動をして、証明をする。
周りの無理解を嘆くより、まずは一歩動き始めることが大切だと肝に銘じます。