今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

学ばなくても年は取る

(写真:スカイツリー、出現!)

■学ばなくても年は取る

『少年老いやすく、学成り難し』
若い頃、あれだけあると思っていた時間が、もう無い。
この間、何をしていたのでしょうか。
「いったい、何をしていたの?」
そう問われても、ハッキリと思い出せない。
学生をやっていて、就職をして、散々怒られながら、チョッピリマトモに出来るようになって。
あと、結婚して、子供ができて、その子供の成長に気を取られているうちに、いつの間にかこの年か・・・。
昔、自分がこの年迄には、どんな人間になっていたいと思っていたろうか。
もっと、世間的にもしっかりやって、自分に自信をもって生きているはずじゃなかったのかな。
でも、いつの間やら、先が見えたとばかりに、店仕舞いの仕方ばかり考えている。
果たして、何十年も生きてきて、何を学んで来たのか。
『学ばなくても年は取る』そのものの自分だと身につまされます。

■一生過ぎやすし

『一生過ぎやすし』
別に有名になることや、お金持ちになることだけが、人生の価値ではありません。
言い換えれば、人にうらやまれるのと、幸せな人生を送るのは別です。人の羨む人生とは、世間的評価と言う一つのものさしに取り込まれて、人の人生を生きることなのです。
そして、功成り名を遂げても、一生の短さに愕然とする人がいます。
病気に倒れ、病院で延命のための装置につながれて、『富や名声は、所詮人生のレコードに過ぎない』と言ったスティーブ・ジョブズの最後の言葉は記憶に新しいところです。
あの夏目漱石も、いよいよ臨終に『ああ、今死んでは困る』と言い残しています。
世界的文豪トルストイも、名声が高まるほど、もたげ始めたのは『自分の仕事や成功は、果たして人生に何の意味を持つのか』と言う魂の問い。得意の絶頂にあっても良いのに、その問いかけに苛まれ、晩年は放浪の末、名も無い地方駅で一生の幕を閉じています。
どんなに、追い求めて、成し遂げても、一生過ぎやすしです。そして、その時、人生の意味を問い直さずにおれない。
ましてや私などが、そう思えるのは、むしろ当たり前かも知れません。

■浦島太郎の教訓

そんな人間の一生の儚さを教えている話に「浦島太郎」があります。
助けた亀に乗せられて、竜宮城に行ってみれば、そこでは乙姫様からの夜に日をついでの歓待づくし。すっかり浦島太郎は、舞い上がって三日も滞在してしまいました。
やがて、少し里心のついた太郎は、乙姫様に帰りたいと告げました。そして、玉手箱を貰って、また亀にまたがり浜まで帰りました。
しかし、その風景は、3日前に覚えているものとはまるで違っていました。なんと、竜宮城の3日間で、地上では何百年も経っていたのです。
思い余って浦島太郎は、乙姫様から「決して開けてはなりませんよ」と言われた玉手箱を開けてしまいます。すると、玉手箱からは、もうもうと白い煙が立ち昇って、浦島太郎は、白髪の老人になっていました。
そうです。その玉手箱には、浦島太郎が竜宮城で過ごした何百年分もの時間が封じ込められていたのです。
わずか3日間、飲めや歌えやの饗宴に心を奪われただけで、気がつけば人生は終わりを迎えている。それでは、あまりに浦島太郎は哀れではありませんか。

■老いは平等、人生は不平等

一生過ぎ易し。
浦島太郎の話が教えているのは、私たち自身の人生の儚さです。
禅僧一休が、狂歌に、
「人生は、食て寝て起きて糞たれて、子は親となる、子は親となる」と教えています。
生きるために食べて、食べるために働いて、働いて帰れば眠くなり、それで寝れば朝起きて、朝起きたらトイレでたれて・・・その合間に子育てをしたり、趣味や娯楽をしたり、友達付き合いをしたり、と、気がつけば何10年も過ぎている。
だから、人生は過ぎやすく、少年は老いやすいのです。
その人生の合間に、いろいろなイベントがあります。しかし、その饗宴に浮かれているうちに、パッと煙が立って人生は終幕となる。まさに、浦島太郎の話と同じ体験を私たちもするのです。
全ての人に老いは平等です。
お金もちも、貧乏人も変わりありません。
いくら若い頃、辣腕で鳴らしても、結局最後は養老院です。
しかし、終幕の姿には差があります。
満足してその時を迎える人、後悔して迎える人、その違いは人生の装飾と、人生の本当の価値を見極めたか否かです。
「学ばなくても年は取る」
学ぶべきは、本当の人生の価値だと思います。