今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

昨日の自分を恥ずかしく思うのが成長

(写真:夕月)

■昔の自分を思い出すと死にたくなる

時折、自由に思いを巡らしていると、ふっと過去の自分を思い出すことがあります。
その時は、一生懸命で、良かれと思ってやっていたのに、今思うとなんと馬鹿なことを言ったり、やったりしていたのか。
「昔のことを思い出すと死にたくなる」
長く生きてきた分、そんな思いにかられることが山とあります。
自分の不適切な言動で人を傷つけたこともあれば、良かれと思ってやったことが完全に間違っていて周りに迷惑をかけたこともあります。
すべきことをせずに親を悲しませたこともあれば、すべきでないことをして激しく叱られたこともあります。
今思えば、なぜそんなことをしてしまったのか。でも、それをしてきたのは間違い無く自分ですし、だからイタイ記憶として鮮明に残っているのです。

■恥ずかしく思うのは成長の証

しかし、その当時は、そうするのがむしろ当然のように思っていました。
自分は正しいことをしている。あるいは、そうしても良い人間なんだ。あるいは、だってしょうがないじゃないか。
間違っていても、間違っていることが分からなかった。
それが、分かるようになったのは、自分が学んで、成長したからです。少しは人の気持ちが分かるようになったり、自分の中ですべきこととすべきでないことの基準がはっきりしたからです。
今から10年前は言うに及ばず、5年前、1年前、いや昨日だって、「ああ、なんて馬鹿なことを考えていたのか」と思い出されて、できれば消し去りたいとか、リセットしたいと言う感情に責め苛まれます。
しかし、その分だけ昨日の自分より、分からなかったことが分かるようになったので、むしろ喜ぶことなのかも知れません。
脱皮の早い蛇は至る所に皮を残します。同じように消したい過去が多いほど、早く成長している証拠ではないでしょうか。

■昨日よりは今日、今日よりは明日

「お互いもうこの歳なんだから、今更変えられないよ。だって、30年かけて作り上げたものを治すのには、また30年かかるだろ?その頃にはもう死んでるじゃん。」
そう言って同僚は揶揄します。
しかし、恥ずかしながら、元がお粗末な分、未だに成長しています。いや、成長せずにおれないのです。そして、その証拠に過去のお粗末な自分が恥ずかしくてたまらない。
もし、昨日の自分が許せるようになれば、それはそこで成長が止まったと言うことです。ですが、まだまだダメです。未だにお粗末過ぎる。人にも迷惑をかけてばかりです。そんな恥ずかしい大人のまま満足したら申し訳ない。
しかし、有難いことに、社会生活を営む限り、常に周りとゴツゴツぶつかって、お互い痛い思いをします。
まるで、ジャリをたくさんいれて、ミキサーで撹拌しているようなものです。ジャリ同士、お互いぶつかって角を削り、玉に近づいています。そう思えば、自分の発した一言に対する周りのネガティヴな反応も、気に入らないあの人の一言も、皆自分を磨いて玉に変えている過程と思えばむしろ喜ばねばなりませんね。
そして、この言葉に励まされています。
『今できるできないが問題なのでない。昨日よりは今日、今日よりは明日と、一歩でも半歩でも前進することが大切である。』

■おそろしや、たゆまぬ歩み、カタツムリ

私たちは、今の自分を完成形と信じたいところがあります。
今までは、散々失敗してきたけれど、もう間違えないぞ・・・ですが、また同じ所で間違えている。あれっ、ここ前来たよね。
その時、気がつきます。
オレ、同じ所をグルグル回っているじゃん。
まるで、お釈迦様の手の平から一散に飛び出して、地の果てまで行ったつもりが、お釈迦様の手の平の上をグルグル回っている孫悟空のようです。
これを流転輪廻と言います。輪が回るように、同じことを繰り返す。もちろん、歩いているから景色は変わります。しかし、景色は変わっても同じ周回の中です。いずれ、前と同じ景色に行き当たり、グルグルと回っていることに気がつきます。まるで、行く手に5つの山(お釈迦様の指)を見た孫悟空です。
つまり、その周回を1周、2周と回っているのが人生です。
ですから、同じような失敗も、間違いも繰り返し、そのたびに落ち込みます。
しかし、同じ周回でも、1周目と、2周目は違います。同じ失敗でも質が変わっている。
そして、その周回の中で少しづつ成長もし、いずれは周回から抜け出たいと思います。
確かに、今はお粗末でも、一歩一歩確実に、昨日の自分を超え続けければ、必ずたどり着けると信じています。
『おそろしや、たゆまぬ歩み、カタツムリ』