今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

内向

(写真:雲間を航く月 その3)

■見たくないものを見なくなる

この東海地方では、「東海大地震」がここ、40年近く警告されています。
ですから、震源に近いと言われている静岡や、お隣の愛知県は、さぞ震災対策の先進県だろうと思われていますが、実は40年も言われ続けているうちにすっかり「耳慣れスズメ」になってしまいました。
最初は身構えていたと思います。
しかし、神戸で起き、東北で起き、明日は我が身かと恐怖に震えているどころか、「何かこっちは忘れられたんじゃないの?」と呑気なものです。
地震が来るのは、私たちにとっては不都合な真実です。「真実」と言うのは、私たちがどんなに頭から消し去ろうとしても、早いか遅いかの違いで必ずやって来るからです。
しかし、それを考えたら、耐震補強など多額の出費をしなければならない。時間を使って、震災対策をしたり、備蓄食料の準備もしなければならない。
あるいは、いつ地震が来るか心配しだしたら、家の新築もままならない。
それは、とっても都合の悪いことです。
だから、あまり見たくない、見たくないから見なくなる。
しかし、見なかったからと言って、それがこなくなる訳でなし、また来た時に後悔しないかと言えば、これはまた別です。

■不都合な真実

何故こうなるんでしょうね。
私はこの間、血管の話を聞きました。
人間の血管はどれくらいの長さなのか?
想像してみて下さい。
人間の血管には動脈流、静脈流、そして毛細血管の3通りが有り、全てつなげると、どれくらいの長さになるでしょうか?
もちろん、人間一人分ですよ。
100メートル?
1000メートル?
いいえ、全部つなげると、10万キロメートル、地球2周半です。
凄いでしょ。
そして、その何処かが詰まると、人間はたいへんなことになります。
脳の血管が詰まれば脳梗塞、心臓の血管が詰まれば心筋梗塞、お腹の動脈瘤が破裂すればまず助かりません。
それくらい命に関わる血管の詰まりですが、10万キロもある血管の何処か詰まっているか、とても分かるものでないそうです。
そして、なにより予防に大切なのは食事の塩分摂取量を減らすことだと言われます。
1日の摂取量の目安は6グラム、それが最近5グラムに減らされました。塩ラーメン一杯の塩分量は6グラムなので、朝昼晩とラーメンを食べている人の血管は相当ボロボロという事になります。

■目隠しで凌ぐ

少し、怖くなったでしょ。
これだけの量の血管を問題なく運用している人間の体のメカニズムにはただ脱帽ですが、それだけ脆いとも言えます。
そう考えると、今生きて、ここにこうしていられるのが、むしろ不思議です。
ですから、今日から塩分摂取を控えよう、今の瞬間は誰でもそう思うでしょうね。
しかし、いつまで続きますか?
おそらく、今いる場所から出たら、恐怖はかなり薄らいでいるでしょう。
そして、今日はラーメンを控えようと思うかも知れませんが、明日になれば、また大好きなラーメンに手が伸びるでしょう。
つまり、この血管の話は私たちにとって、食べたいものが食べられなくなる不都合な真実なのです。
そうすると、人間は見たくないものを見なくなります。
ちょうど物凄く怖いものが近づいてきた時、目隠しをして頭から消し去ろうとする。そして、今一時的な安心感を得ようとします。
そして、この血管の話も同じ習いで、無視しておいても、今日明日は無事に生きていられますから、いつの間にか慣れっこになってしまうのです。

■だからその時、愕然とする

トルストイが絶賛した「人間の実相」と言う譬え話が、譬喩経と言うお経に説かれています。
譬え話の中で、人間は、飢えた虎に追い詰められ、細い藤蔓で断崖にぶら下がって難を凌いでいる一人の旅人に譬えられています。しかし、旅人がぶら下がっている断崖の下は、底の知れない深海で、しかもそこには三匹の毒竜が口を開けて待っています。そして、藤蔓が切れたらそこに落ちて、いずれかの毒竜に食われるのです。
さらに、その命の藤蔓を白と黒の二匹のネズミが交代で齧って念々細くしています。
しかし、そんな状況に陥りながら、旅人は何をしているかと言えば、上の蜂の巣から落ちてくる五滴のハチミツにすっかり心を奪われているのです。
では、何故、こんな旅人が私たちなのか?

飢えた虎は、迫り来る私たちの死です。10万キロメートルある血管の何処かが詰まれば、虎に食われたと言うことです。
しかし、本当はいつ死ぬか分からぬ身でありながら、私たちは平均寿命までは大丈夫と勝手に安心しています。でも、平均寿命まであとどれだけでしょう。もう、何年もないのではないですか?
ですから、細い藤蔓に譬えられたのは、私たちの寿命です。
その藤蔓を細くしている白と黒のネズミとは、日々私たちの命を縮めている昼と夜のことです。
そして、藤蔓を完全に噛み切られたら、私たちは深海に落ちて、三匹の毒竜に食われるのです。そう、深海とは私たちがもっとも忌み嫌う死であり、三匹の毒竜とは、欲、怒り、愚痴の煩悩です。結局、私たちは、この三つの煩悩のいずれかに命を奪われるのです。
そして、旅人が心を奪われている五滴のハチミツとは、日々私たちが求めている欲です。
結局、毎日、食べたい、褒められたい、彼女と付き合いたい、お金が欲しい、楽がしたいと、そればかりに追われて、自分がどう言う立場か分かっていません。

しかし、聞かれて分かるように、これら一切私たち無関係な話ではなく、また頭では分かりすぎるほど分かっていることです。
ただ、見たくないから見ていないだけで。
私たちは、そんな存在です。
見ていないところに、見なければならない不都合な真実があります。
それを見ずに内向すれば、いざ現実になった時に愕然とします。
よく、周りを見回して、現に愕然としている人から学び、同じ轍を踏まないような用心が肝心です。