今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

真の叱責とは、叱責者自身にも痛みをもたらす

(写真:雲間を航く月 その2)

■真の叱責とは、叱責者自身にも痛みをもたらす

人を叱ることは、叱っている人自身もつらい、と言います。
しかし、叱られている方は、そうは思っていません。
自分を叱りつける相手を、厭い憎んで、果ては自分が叱る立場だったら、どんなに爽快だろうと、浅ましい想像を膨らませています。
しかし、叱るとは言いながら、自分たちが思い描いているのは、感情を吐き出している姿に過ぎません。
感情のまま怒り散らしている、つまり「怒って」いるのです。
怒りを相手にぶつければ気持ちがセイセイしましょうが、しかし、それを「叱っている」とは言わないのです。

■叱ることは嫌われること

自分の感情のまま怒りを表現することが「怒る」。対して、相手をよく見て、さらに向上させようと導くのが「叱る」。
そう考えたら、自分など恥ずかしいけれど、怒りはするが、ほとんど叱っていないことに思い至ります。
さすがにこの年になると、自分の思いのまま感情を吐き出すのははばかられるので、あまり怒りを表に表さないように努めています。
いや、腹は立つのです。
しかし、すぐに感情で動かずに、しばらく気持ちの波が去るのを待ちます。そうすると「なんで怒っていたのかな?」とやり過ごすことができるようになります。
年の功と言うか、これはほとんどの人が年を重ねて身につけるスキルです。
対して、叱ることは、自分の気持ちとは関係ありません。自分は、叱りたくなくても、目の前に間違ったことをしている人がいたら、一言言わねばなりません。
しかし、叱ると、相手の気分を害する、憎まれる。「自分のためを思って言ってくれているのだ。」そう分かっていても、なかなか素直になれない。
それが案じられて、叱ることは誠に気が重いことです。

■車止め

だから、私たちは、叱ることに臆病になる。
目の前でおかしなことをしていても、その場を取り繕って、無事にやり過ごそうとする。
最近、大人が情けなくなったと言われますが、身を挺してまで叱ることはたいへんですし、それを敢えてしようとする気概が社会から失われているのかも知れません。

私が、叱られた思い出に、こんなものがあります。
車載のIT機器を使用しているお客さんがありました。
そして車載器自身は、出入りのディーラーさんが提供し、その機器からデータを取り出して解析する仕事は私たちの会社が請け負っていました。
ところが、その機器があまり調子良くなくて、かなりの頻度でデータ破損するのです。
「これでは仕事にならない」と、お客さんからは苦情が上がってきます。本来、データ破損は機器側の責任ですが、長い付き合いの中でお客さんはどうしても私たちを頼って来ます。
それで、調査をしたり、メーカーやディーラーに働きかけたりと、かなり時間を使い、取り敢えず、お客さんは「様子を見る」と鎮静しかけました。
ところが、やはり根本が解決されていないので、またお客さんが点火。
そして、お客さんの「なんとかしろ」が、私まで届くようになりました。
自社としてやれることは、やり切った後でしたが、窮して再度メーカーに働きかけようとした矢先、上から「自ら火種を作るようなことをすべきでない」としっかりお灸を据えられました。
まるで、走り出そうとした時に、車止めに当たって緊急停止したようなものです。

■叱った本人も痛かった

例えば、道を走っていて、ついついスピードが出すぎて、車線からはみだそうとしたとき、車止めにぶつかって止まることができたとします。
しかし、車は大破し、煙を上げています。
そのとき、私たちは車止めを恨むでしょうか。
いや、自分をしたたかに打ち据えた車止めでしたが、それがなければ、私は崖の下に転落していたのです。
むしろ、感謝しなければなりませんね。
同じように、前段の例で、そのまま突っ込んでいたらたいへんだったと思います。
厳しくお灸を据えられたことを、一時は恨みはしましたが、あの時止めて貰えたことに感謝しています。
私たちは、叱られると、叱って貰えたことで回避できたことに感謝するより、相手の口調や態度が気にくわないとか、そればかり問題にして責めたい気持ちが出てきます。
しかし、そんな自分であることを承知で、つまり教えられても恨むつまらん奴だと承知で、敢えて叱ってくれるのです。
正直自分にできるだろうか、と思います。
そして、車を止めた車止めも、ぶつかった衝撃で痛い思いをするのです。
つくづく、上の心、下知らず。
本来なら叱ってくれた相手に感謝し、反省もしなければならないのに、です。