今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

世界の片隅で

(写真:栄 テレビ塔)

■子供の頃の思い出

子供のころから、自分は持て余しものだったようです。
よく利かん気を起こして、特に母親から叱られていました。
「お前は何の気になっているか知らんが、ここにお前と言う人間がいて、しばらく生きて、やがて死ぬ。それだけのことだろう。」
子供相手に、よくもそんな核心をついたことを言うもんだな、と未だに感心します。
しかし、小学生低学年だった自分は本当に悩みました。
苦労人で気性の激しい母親から、反抗心の強い息子が、お山の大将でいい気になっていた天狗の鼻っ柱を折られました。
そして、子供心に思ったのは、「決して自分は特別な人間ではない。自分以外の人間からは、その他大勢の一人に過ぎない」ことです。

■70億分の1の人生

自分の人生の主人公は自分です。
人生で感じる喜びも、苦しみも全て自分自身のものです。
いかに親しい友達でも、代わりに感じてあげたり、感じてもらう事はできません。
地球上に70億の人類があれば、同じように70億通りの人生があります。
そして、それぞれの人生は、究極的には決して交わることはないのです。
よく親同士で話し合うことは、「所詮、子供は子供の人生、親が思うようにしたいと思っても無理なんだよね。」
手塩にかけた我が子なら、できれば親の理想とする人生を生きて欲しい。そう願って、幼い頃から習い事をさせたり、いろいろな啓発に努めますが、やはり子供は自分の興味が向く分野でしか才能を発揮しようとはしません。親といえど、そこはコントロールできないと思い知らされることしばしばです。
親は親、子供は子供、それぞれの人生を生きている。
確かに功成り名を遂げて、人に影響を与える人間になれば、人の分まで人生を生きている気持ちになります。しかし、他者の目線に立てば、どんな偉人や権力者も、自分の人生に現れた巨大な山や岩のようなもので、存在感はありますが、やはりそれは他人であり、人の人生です。

■世界の中心

もちろん、世界の中心と言われる場所はあります。
例えば、ニューヨーク、ウォール街、あるいはホワイトハウスやシリコンバレー。
アジアなら、シンガポールや、東京、国会議事堂や兜町。
確かに、世界や日本中から注目され、世界中に大きな影響を与えている場所です。
だから、皆んなそこを目指し、そこでの成功を夢見ます。
それは、世界の中心にいて、世界を動かしていると思いたいからです。
しかし、そう考えた時、いつも思い出すのは、9.11でのワールドトレードセンターの悲劇です。
まさに、ニューヨーク・マンハッタンで、世界の中心的な巨大商業施設として君臨していました。そして、日本や世界中から、一流企業の超エリートたちが選ばれて赴任していました。
ワールドトレードセンターのツインタワーからはニューヨークの街が見下ろせました。そして、そこで働く人たちはどんなに誇らしく、また世界の中心にいる気持ちだったでしょう。

■みんな世界の中心に生きている

しかし、そこが2001年9月11日、悲惨な同時多発テロの舞台となりました。
この日、ワールドトレードセンターのツインタワーに二機の旅客機が次々と激突したのです。飛行機が激突したフロアは完全に崩壊、やがて大規模な火災がビルの内部に広がっていきます。
崩壊したフロアから下の階の人はなんとか難を逃れることができましたが、上の階の人たちは階下から迫る火にだんだんと逃げ場を失っていきます。
そして、熱でもう建物の中にいられないと、窓の外にビッシリと張り付いた人、人、人。
一刻も早く助けて欲しいと悲痛な懇願をしていました。
しかし、窓の外にいる人たちに容赦なく火災の高熱が迫ってきます。
そして・・・ついに耐えられなくなった人から次々と何百メートル下に自ら飛び降りていったのです。
ビルからこぼれ落ちた無数の命、しかし、それはまるでゴミのような軽さでした。まさに阿鼻叫喚の地獄絵図です。
その、軽く散った命の一つ一つが、それまで世界の中心で、そして世界を動かしていると思っていた人たちです。

どんなに、世界の中心に身を置いても、残酷な無常の前には命は軽く、もろい。
しかし、その命一つ一つに願いも、夢も、喜びも、悲しみも全部詰まっていたのです。
そして、世界の中心だけでなく、片隅に生きている私たち一人一人の命も重さから言えば変わりません。
私たち、自分の人生の主人公である一人一人にとって、世界は自分が生きている場所が中心であり、またかけがえのない時間を生きています。
だから、このかけがえのない命、どう生かすかは、とても大切な課題なのです。