今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

自分の限界は自分が何であるか、ではなく、自分で自分をどう見ているかで決まる

(写真:バースデーパーティー)

■凡庸さを自覚する

若い頃は、根拠なく自分のことを特別な人間だと思っていました。
と、聞くと、すごく嫌な人間に思えますが、人間には誰しも、そんな一面があります。
人生と言うこの舞台に投げ込まれて、周りには自分と、その他大勢の人たち。
皆んな、普通に生きて、普通に死んでいくんだろうな。そう、人生劇場のエキストラたち。
だけど、自分はこの人生の主役だ。
その主役の人生が凡庸なものであって良いはずがない。そして、何事もなく平凡に終幕を迎えて良いはずがない。
そうして、人間は必死になって、自分なりの人生の意味を探すのでしょう。
所詮は、自分もその他大勢の一人である事実を、懸命に否定するために。
確かに、功なり名を遂げれば、人は自分を認めるでしょう。尊敬もしてくれるし、丁重に扱ってもくれます。
まるで、人生の主役であると裏付けられたようなもので、得意になり、嬉しくなります。
でも、自分のようなものは、残念ながら凡庸なままの終幕が見えています。否応なく、その他大勢の一人だったと自覚させられるのです。

■限界の自覚

自分を凡庸と言ったり、その他大勢と言ったり、これを自ら言ってしまえるのは、年の功かも知れません。
その他大勢の一人、いくつになってもしょうがない自分。賢人偉人とは程遠い自分。
それを素直に受け入れてしまうと楽になります。
そして、やたら人と競ったり、人の期待にがんじがらめになることはなくなる。
俺は、俺、そう言って周りの評価に振り回されることなく笑っていられる。
反対に、ある程度、功なり名を遂げた人は、私たちより自分を頼む気持ちはずっと強いでしょう。人生、頑張ってなんとかしてきたのですから。
俺の人生、自分次第、なんとかすれば、なんとかなる。
そして、自分の限界を容易に受け入れない。
老練な政治家とか、思うままに生きて来られた人、そして人からも特別視され、自分でも「自分は特別な人間だ」と自負してきた人。
しかし、いずれは後進に追い落とされ、その他大勢に埋もれる憂き目を見ます。
その時感じる口惜しさ、喪失感は、私のような凡庸なものの何十倍かも知れません。

■限界は何が決める

ここで言う限界とは、あくまで人の評価の中での限界です。
確かに、人間は社会的動物なので、人との関わりを抜きに、存在も評価もありません。
功なり名を遂げたと言うのも、それだけ周りの評価を得たと言うことです。
ゴッホやゴーギャンが偉いのも、死後彼らの絵を世の中が評価したからです。ただ、残念ながら、その評価の声が彼らに届くことはありませんでした。ゴッホやゴーギャンの絵が凄いと言うのは、後付で私たちが言っていることなのです。
ですから、評価とか、限界とかは、私たちの都合でコロコロ変わるものですし、本人の幸せ感や、その仕事の真価とは必ずしも関係はないようです。
実際、「再評価」と言う言葉がありますが、その人の仕事は変わらないのに、我々の関心の向き方で、価値が出たり、出なかったり。
そこで、権威のある誰がが「やっぱり彼は凄い!」と叫べば、皆んながまた注目し始めて、その人の仕事が生き返る。
果たして、ブログなどは、短期間で人気がでたり、あるいは熱が冷めて人が去ったり。
それは、人の評価によって、仕事の価値が生きたり死んだりする世の中の縮図のようです。

■限界を超えた人

また評価されるには、得手な仕事をしなければ結果を残せません。しかし、そんな適材適所で成功している人は一握りです。
確かに、一定の適正試験で担当は割り振られているはずです。しかし、そこは会社の都合で、苦手な仕事でもしなければならないケースはいくらでもあります。
そして、人間はどうしても、自分の目の前の仕事で評価を得ようと懸命になります。
多くの人は本来苦手な仕事をしているのです。ですから、普通の我々にとって仕事は、つらく苦しいのは当然と言えます。
では、一歩そこから飛び出して、本当に自分が向いていること、そしてやっていて楽しいことをしたらどうでしょうか。
別に人の評価なんて、どうでも良いじゃありませんか。一度の人生、人から割り振られたやりたくない仕事に費やしたら、命を使う意味がない。
そのように、何度自分の中で逡巡したことでしょう。
でも、やはり人間にとって、周りの評価は命以上に命なのです。
周りが褒めて頼ると嬉しくて元気が出る。反対に軽んじられると、眠れなくなり、食欲が落ちて、生きる気力を喪失する。
だから、せっかく周りから任せて貰えた仕事は手放せない。
そんなところですよね。
また、会社や家族に対する責任もありますし。
ですが、所詮、限界とは周りの評価で生まれるものです。自分が何者であるかも、実は周りが決めているのです。
しかし、自分が何者であるかを決められるのは、自分自身であるはず。
周りが限界だ、無理だ、と彼らの常識を押し付けたって、自分の適正は皆んなの認識を超えているかも知れない。
そして、周りの評価の戒めを断ち切って、自ら動いた人が自分の人生の本当の主人公になっています。
そう、自分自身、自分をどう認識し、可能性を信じるかによって、限界は変わるのです。