今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

自分鏡

(写真:ひるがのの朝)

■良心で見た自分

昨日、他人の評価で自分の姿を知ろうとすることを「他人鏡」とお伝えしました。
他人の評価はとても大切ですが、往々にしてその人やその時の都合で歪んでしまいます。
人の言うことばかり気にしていたら、イソップの「ロバを担いだ親子」のような悲劇にもなりかねません。
曰く、
愚かな親子が、その愚かさゆえに食い詰めて、ついに最後の財産のロバをを売りに行くことになりました。
二人はロバを引いて、市場に向かいましたが、すれ違った人がこんなことを言います。
「もったいない、二人して歩いていずに、どちらかがロバに乗れば良いのに。」
なるほどと思った父親は、息子を乗せて、自分が歩きました。
すると今度は、
「あんな若いもんがロバに乗って、年寄りを歩かせている。なんと無慈悲な息子だろう。」と言われます。
それで息子を歩かせて、父親がロバに乗りました。
そうしたところ、
「なんと無慈悲な父親だろう。息子を歩かせて自分だけ楽をしている。」と言われました。
それで親子は二人してロバに乗りましたが、さすがに重さに耐えかねて、ロバはひーひーと悲鳴をあげます。
そして見かねた人が、
「なんと無慈悲な親子だろう。ロバに二人して乗るなんて、可哀想だと思わないのか。」
ついに進退窮まった二人は、ロバの足を結わえて二人で担いで行きました。
ちょうど橋のところに差し掛かったところで、そこへ通り掛かった自動車の音に驚いたロバは、二人の肩に担がれたままで暴れ始めました。
そして、ついには川の中にジャボンと飛び込んで、二人の大切なロバはそのまま溺れ死んでしまったのです。
〜・〜
私たちも身に覚えのあることです。
間違いないと信じていた人が、毎日違うことを言いだしたら、このように振り回されてしまいます。
朝礼暮改も困りますが、やはり自分がしっかりしていなくてはなりませんね。
ですから、自分で自分を見る、つまり自分の信念や良心に照らして自分自身を見ることが大切です。
これを、「他人鏡」に対して、「自分鏡」と言います。

■自分のことは自分が一番分かっている

よく「自分のことは自分が一番よく分かっている」と言います。
刑事ドラマでも、
「無茶だ!そんな身体で捜査を続けたら死んでしまうぞ」と言う同僚に、「俺の身体は、俺自身が一番分かっている」と振り切っていますね。
お母さんが子供に、
「そんなにゲームばかりしていて、今度のテスト大丈夫なの?」と小言を言うと、子供は「うるさいなぁ。自分のことは、自分が一番よく分かっているよ」と言い返しています。
確かに、自分自身のことですから、他人から見えない部分でもよく見えます。
「人は自分のことを褒めてくれるけど、本当は気に入られたくて無理に合わせているだけなんだよな」とか。
他人には見えない内面の姿が、自分ではよく自覚されるため、「自分鏡」は「他人鏡」より精度が上かも知れません。

■自己を歪ませるもの

しかし、「他人鏡」には都合で歪むと言う欠陥があったように、「自分鏡」にも欠点があります。
例えば、前段の「自分のことは自分が一番よく分かっている」と言う人。「だから、大丈夫」と言いたいのでしょうが、大抵この場合は大丈夫ではありません。
ドラマ終盤にアッサリ殉職したり(見ている我々からすれば、すでに死亡フラグが立っていたのですが)、子供も大抵試験直前に泣きが入って親に当たり散らします。
「自分のことが分かっている」は全く当てになりません。
友人が危篤、大変だ!ひと目死に目に会いたいと、車で駆けつける。ところが、その車が事故を起こして、自分が先に死んでしまう。
反対に友達の方は、なんとか危機を脱して一命を取り留めることができた。
・・・なんてことが、実際にあります。
本当に危なかったのは、友達ではなかった。自分の方だったのです。
しかし、何故か自分のことは漠然と大丈夫だと思い込んでいます。
子供のころ、大地震の話を聞いた時、真っ先に心配したのは親のことでした。いや、非力な自分の方が余程命の危険があるのに、何故か自分が死ぬ想定はなかったですね。
このように、分かっているつもりで、いつも目を曇らされて、分からないのが自分自身です。

■自惚れと欲目

では、何故自分の正しい姿が分からないのでしょうか。
まず、自分だけは大丈夫だと漠然と思い込んでいる心、自惚れ心のためです。
試験勉強しなくても何とかなると思う。
税金が高い、高齢者が増えすぎた所為だと息巻いていながら、自分がその高齢者の仲間入りをすることを想定していない。そこで、そのことを指摘すると「自分は若いうちに死ぬ」と言い出す。ならば、健康管理なんか止めれば良いのに。
あるいは、年がいって収入の道が断たれても、漠然と自分だけは何とかなれると思っている。
また、地震が来ても、自分だけはちゃんと無事に立っていられると思い込んでいる。
これら、全て自惚れ心で自分の姿が見えなくなっているのです。その証拠に、実際事が起きれば、皆んな後悔しているではないですか。
あるいは、欲目。
実は、自分のことは皆んな脳内でかなり美化しているものです。
脳内のスッキリとスマートな自分を思い描いているものだから、たまにスマホのインカメラで自分の本当の顔と対面すると耐えられなくて、すぐに切り替えてしまいます。
しかし、頭に美化した自分を飼っていればこそ、痛い決めポーズも平気で人前で披露できるんでしょ。
また、自分の内面についてもこの習いです。
どうしても、自分が悪人と思えない。
人から後ろ指を指されるような人間とは思えない。
だから、自宅で危険ドラッグを精製して皆んなを欺いていながら、視聴者の前では人気者のアナウンサーを演じるような人物も現れます。実態は、許されないことをしていながら、人前ではそれをキレイサッパリ忘れている。だから、カメラに向かって賢そうな顔で時事評などもできるのでしょう。
果たして、その時の彼の頭の中には悪人の自分の実態など微塵も見えていなかったのではないでしょうか。
しかし、この某アナウンサーだけでない。私たちも大なり小なり、浅ましいことや思いを隠して、人前では善人を演じています。
そして、いつの間にか善人の方を自分の本当の顔のように思い込んでいます。
ある意味、悲劇であり、喜劇です。
このように「自分鏡」も、いつも自分の姿を自惚れと欲目で歪めます。
まさに、
「こころこそ こころ惑わす こころなれ
こころに こころ こころ許すな」
であります。