今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

損得の基準

(写真:駐車場に迫る夕闇)

■ある夜、王様は

ある夜のこと。
王様は供を従え街へと出向きました。そして、通りの真ん中に大きな石を置いて帰りました。
その後、酔っ払いの労働者が通りかかり、石に躓いて倒れました。その時、思い切り向こう脛をぶつけた彼は、腹立ちまぎれに毒づきます。
「おお!痛え!誰だ、こんなところに石ころを置いた馬鹿野郎は!」
また次の朝早く、今度は馬に乗った紳士が通りかかって、石にぶつかるところで危うく難を逃れました。
「ひどいイタズラをする!危うく落馬して命を落とすところだったぞ。」
紳士はプツプツ言いながら、その場を立ち去りました。
その後、多くの人がそこを通りかかり、同じように石を見て文句を言いましたが、誰もその石を片付けようとする者は現れませんでした。

■2週間後

それから、2週間後のこと。
王様は、また街にやって来て、通りに町中の人を集めました。
「あ〜、オホン。実は、この通りに石を置いたのは誰あろう、この私である。それから2週間、ここを通ったものは多くあったが、残念ながら皆んなの為に石を取り除こうと言うものは一人もいなかった。これはひとえに私の政治の欠陥である。そこで、今日は私自身で石を取り除くとしよう。」
そう言って、王様が石を取り除いた後には、穴が掘ってあり、沢山の金貨に一枚の紙が添えて埋められていました。
『この石を取り除いたものに、この金貨を与える。』
それを見て、何度も石の前を通り掛かった町中の人たちはさぞ悔しがったことでしょう。

■損得の基準

この話は何を示唆しているのでしょうか。
たまたま通り掛かったところに、大きな石があった。
邪魔だな、危ないな。
怪我しなくて良かったなあ。
そうは思いますが、石を取り除けようと言う心はありません。
なぜならほおっておけば、きっと誰かが片付けてくれるのです。なのに、何故自分が手ずから苦労をしなくてはならないのでしょう。
石を退ければ、後を通る人たちは大いに助かります。しかし、それを自分がすることは損に思えるのです。
でも、話の中で本当に損をしていたのは誰でしょう。ほんの小さな労を惜しんで、金貨の袋を手に入れ損ねた町の人たちではなかったでしょうか。

■本当に損をしているか

これは寓話ですが、実は現実でも同じような体験をしていることに思い当たります。
例えば、会社で月一度、報告書を作るのに半日かけてデータの仕分けをしているとします。
面倒は面倒ですが、月に一度我慢すれば良いことですし、ずっと先輩から続けてきたやり方です。今更、自分が苦労して、効率的なやり方に変えようとはなかなか思えません。
しかし、そこで一工夫、エクセルのマクロを勉強して、自動でデータを振り分けられる仕組みを考えたとします。
おかげで、休みの日もエクセルの本とにらめっこすることになりましたし、何日か残業もしました。
でも、その甲斐あって、その仕事は半日が30分で済むようになりました。また仕事を引き継いだ後輩たちからも大いに感謝されました。
このように、事務所や現場で少し工夫すれば皆んな助かるのに、誰も手をつけないからそのままになっていることは沢山あります。
それでいて、皆んな同じような不便を感じています。どうすれば良いかも分かっています。
ですが、「言ったもん負け」と思うのか、自分から手を上げて苦労を背負い込む人はいません。
しかし、気が付いていないのです。その面倒な仕事は王様の置いた石で、その下には金貨の袋が掘り出されるのを待っていることを。
その金貨とは何でしょう?
それは、自ら手を上げ、一汗かいて会社や職場のために貢献したことに対する評価や信頼です。
私たちは、日頃から評価してもらいたい、信頼を得たいと思っていますが、なかなかその機会には恵まれません。しかし、少し目を転ずれば、評価されるチャンスはたくさん転がっているのです。
ですから、あながちこの王様の話もおとぎ話とばかり言えないでしょ?