今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

至言を人を打つのに使わないこと

(写真:粘土細工 その1)

■誰もが認める至言

『人と対立した時は、自分の意見ではなく、誰もが聞いて納得できる、第三者の意見で説得をする。』
説得術とか、議論術と言う本で、たまに見かけるフレーズである。
議論とは、言わば押し相撲のようなもの。
ガップリと組み合わなければ、まず相撲にならない。
そのためには、同じ土俵に乗る。
噛み合わないまま、自分の思いをぶつけ合っているだけでは、どんなに上手く主張しても、相手には届かないだろう。所詮は、「自分の都合の良いように言っている」としか取られないからだ。
相手は離れた位置から、自分の主張を高射砲のように打ち出してくる。お互い玉は打つが、相手に届かないから、いわゆる平行線となる。
そんな時、お互いが認めざるを得ない第三者の意見で説得を試みる。
分かりやすく言えば、昔の天台宗と浄土宗の法論が一切経を土俵に行われたようなもの。ともに、仏教宗派だから、お釈迦様の言葉には従わない訳にはいかないからだ。

■自分都合で使ったら

この誰もが認める第三者の意見を『至言』と言う。
松下幸之助とか、本田宗一郎とか、稲盛和夫とか、誰もが凄いなあと認めている人の言葉には説得力がある。
「松下さんがそう言うから、そうなのか」と聞く耳も持ってくれる。
例えば、時間がかかるからと会社が中断を打診してきた案件に対して、「松下幸之助さんは、成功の秘訣を『止めないこと』だと言っていますよ」と言えば、しばらくは継続させて貰えるかも知れない。
だが、この至言は諸刄の剣でもある。
自分がキチンと使うべき場所、そしてその正しい意味を分かって使うなら良いが、浅い理解で振り回したら、「松下さんの言葉」が一人歩きして、周りが迷惑する。
一ヶ月後にどうなるとか、半年後にどうなるとかビジョンや確信も持たず継続を主張したら、それこそ至言に酔っているだけだし、凶器になる。

■身に備わってこそ

よく「◯◯さんが、こう言っていたよ」とか、「あの本にこう書いてあったよ」とか、他人の意見で権威付けして、意見を通そうとする人もいる。
子供の頃から、その被害にあって来たし、そんな話を聞くたびにウンザリする。
「で、あなたは、どう思うの?」と聞きたくなる。
相手が引用しているのは至言である。間違いなく立派な人の言葉であるから、聞く価値があるのは間違いない。
しかし、話者自身が消化していないし、納得もしていない。つまり、偉い人の話だから正しいよねと、判断をこちらに委ねている。
相手が消化していないものを、こちらにそのまま投げて寄越されても正直困る。
確かに、至言は説得の有効な武器だが、浅い理解で使ったり、自己都合で使ってはかえって害にしかしならない。

■自己反省と許容

至言は、諸刄の剣と書いた。
それは、別の意味もある。
至言は、相手を鋭く斬ることができる。と、同時に自分自身も斬られる。
それは、偉人や著名人が、深い人間洞察や、失敗を通じて獲た経験を言葉にしたものだからだ。そして、言った人自身の反省も、そこには含まれている。
ましてや、我々のようなものが聞けば、深い自己反省が生まれる。むしろ、そうなって初めて、至言を正しく聞いたと言えるだろう。
自分に反省があれば、至言で相手を打って、得意になって済ますことない。至言を吐くと同時に、至らない自分が知らされて、相手に対する許容が生まれるのだ。
翻って、昨今のビジネス書流行りで、知識を得ることに終始して、自分自身に落とし込めているだろうか。得た知識を人を打つのに使って満足しているだけではなかろうか。
深く反省される。