今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

非凡とは、輝きの有無である

(写真:ロボ楽団)

■輝いている人

自分は輝いているか。
誰が輝いているか。
どんな人が輝いているか。

「よくやっているね。」と声をかける。
「いや、ぜんぜんそんなことないですよ。」と返答する。
本人は謙遜するが、輝いているなあと思う。
どんな立場か、ではない。
仕事がしんどいとか、楽だとか関係ない。
自分の責任を自覚して、なんとかそれを果たそうと頑張っている人は輝いている。
しんどいけれど、その分周りからも頼りにされている。
人間は、して貰うより、誰かの為にする方が満足感が高いそうだ。
仕事の本質は、誰かの役に立つこと。
そして、自分の仕事を頑張っている人は輝いている。

■人間はみな原石

凡人、あるいは非凡と言われる。
凡人、それは圧倒的多数である我々のことである。
対して、非凡とは、その凡人の中から飛び抜けた存在。我々には考えられないパフォーマンスで仕事をする。
そして自分が困った時、最初に名前が浮かぶ人である。おそらく他の皆んなも同じだろう。そうして、非凡な人の周りにはたくさんの人が集まる。
輝いているな、と見られるし、我々はどうしたらあのようになれるだろうと羨望の眼差しを注ぐ。
我々は非凡になりたいのだ。
もちろん、生まれ持っての才能はある。
勉強と、それを応用する分野では、自分などひっくり返っても東大生には及ばない。
だが、東大生と言えど、非凡な人は一部である。世の中で超一流と言われる人には、学歴社会と無縁な人も多い。
それは人は必ず何らかの才能を持つから。
その才能を生業と一致させた人は非凡、一流と言われ、一致させられなかった我々圧倒的多数は凡人と言われる。
ならば、誰しも非凡への道を開くことは可能だ。人間は、みな非凡の輝きを放つダイヤモンドの原石なのだ。

■仕事が人を磨く

原石と言ったのは、そのままでは価値がないから。
ダイヤモンドも磨いてこそである。
つまり、非凡の輝きを放つまで、努力して磨く必要がある。
しかし、人間は努力が嫌いである。
同じように給料を持って帰れるのなら、少しでも楽な道を歩きたい。早く帰って、好きなところで好きなことをしたい。
反面、それは夢中になっていないとも言える。好きで夢中になることなら、時間の多少を問わずに打ち込んでいるではないか。
月曜日の出勤時間、どうも本調子でない。
それは休日にハメを外したから。
逆に言えば、好きなこと、夢中になれることなら、時間も体力も構わずにやっている。
だから仕事のし過ぎを注意され、早く帰されてもあまり意味がない。プライベートで負荷をかけまくっているから。
好きなこと、それが仕事でもいいじゃないか。夢中になって、時間を忘れる。
その間に、どんどん技能は磨かれ非凡へと近づいていく。
一番、幸せな人生である。

■輝いているひとはみな非凡である

好きなことをする。
毎日、会社から帰る時に後ろ髪を引かれ、出社が待ち遠しくてならない。
そんな体験がある。
それは夢中になって、今までにない何かを作り上げようとしている時。
次はこうしよう、ああしようとアイディアが湧いて出る。そして、そのうち一つでも、カチリと音を立ててハマったら、一気に問題が解決され次に進む。
よく人から楽しそうに仕事しているね、と言われた。
結構自分では、しんどい、たいへんだと思っていたけど、そんな楽しそうに仕事していた?きっと、自分には幸せな時間だったのだろう。
好きなことをする。それで人にも認められる。生業も成り立つ。
人から頼りにされる。
そんな気持ちの人は中から輝く。
輝いている人は非凡である。
仕事は、つらいこと。仕事だからら仕方ない。そう諦めたら、人生の時間がもったいない。命を使ってまでする価値がない。
どうせ、人生の大量の時間を拘束されるなら、楽しい時間であって欲しい。
でも、それが周りからも与えられるのを待っていても、少しも楽しくならない。
自分の仕事は、自分が一番楽しくなれるようにプロデュースしたい。
そのための努力ならできるんじゃないか。
そんな仕事観だってあっても良い。