今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

大きな袋

(写真:曼珠沙華 その2)

■項羽と劉邦

中国初の統一王朝 秦の時代、度重なる反乱ですっかり疲弊し、その反動で圧政を続ける王朝に、反旗を翻した二人のリーダーがいた。
項羽と劉邦の両雄である。
項羽は、貴族の出身で文武に明るく、生涯の戦でも殆ど負け知らずの猛将であった。
対する劉邦は、仲間から劉兄いと慕われる、いわゆるゴロツキの頭目のような人物であった。だが、不思議と人望があり、いつの間にか打倒秦の一大勢力の片翼となる。
一時は項羽の軍に身を置き、ともに秦軍と戦った劉邦だった。しかし、両雄並び立たずで、やがて項羽と劉邦は両陣営に分かれて反目し合うようになる。
精強にして、負け知らず、言わばサラブレッドの項羽と、どこの馬の骨とも知れぬ、ならずもの上がりの劉邦。その両者が、秦王朝後の覇権をかけて争った。

■最後に残ったのは

秦の後、いくつかの暫定政権が勃興したが、我々の記憶に残る統一王朝は漢である。そして、その建国者こそ、もとゴロツキの親分、劉邦だった。
では、何故劉邦は、出自も実力も優れていた項羽に勝つことができたのか。
大方が想像するのとは裏腹に、劉邦は戦が弱かった。秦軍と戦っている時から、戦っては負け、軍が離散しては、また手勢を率いて再起した。
項羽と対峙する時も、戦う度に負けていた。
司馬遼太郎氏の小説によれば、負ける度に項羽に助命を懇願し、辛くも一命を拾う情けない劉邦が描かれている。
しかし、その間にも寄せ集めながら、確実に勢力を増し、人に恵まれ、ついに項羽と伍するまでになった。
そして、最終決戦で劉邦は項羽軍を圧倒した。一敗地にまみれた項羽は劉邦に、生涯ただ一度の助命の嘆願をする。今までの経緯があるので一旦劉邦は項羽を許すも、その後追撃軍を送り、彼を滅ぼすに至る。
かくして、劉邦は秦滅亡後の覇者となった。

■大きな袋

しかし、まるでこれでは精強なエリートに、挑んだダメダメ男のサクセスストーリーである。そんな大衆受けするドラマが、中国の歴史と言う大舞台で本当に起きたのか。
それについて、劉邦の真価を評した言葉がある。
劉邦は、「大きな袋」だと言うのだ。
袋とは、それ自体に何の価値もない。しかし、価値のあるものを入れることができる。ましてや、大きな袋ならたくさん入る。
価値のあるものをたくさん入れた大きな袋なら、人は同じく価値を認め評価する。
項羽は、出自も立派で能力も高い猛将だった。しかし、時折見せる冷酷な面に肝を冷やす人は多かった。
対して、決して出自も人間性も優れてはいないが、素直に人の意見を入れ、愚かしくも愛らしい面のある劉邦のもとで多くが働きたがった。
かくて、その戦略の全てを立案したと言う名参謀の張良や、背水の陣で有名な名将韓信を得て、劉邦は大きな飛躍を遂げたのだ。

■弱さを認める度量

かつて劉邦は、儒者と言う人種を小馬鹿にしていたと言う。
それで、応対もわざとぞんざいにしていたら、ある偉い儒者の先生から説教をくらった。
仮にも、大軍団の将たる人物が面と向かってハッキリともの申されたら、とてもまともに聴けないだろう。すぐに腹を立てて首をはねるか、それとも苦笑いしてやり過ごすのもなかなかの度量がいる。
しかしその時、劉邦は叱られた子供よろしく、しおらしく儒者の意見を拝聴している。
多くの人に支えられて大軍を率いても、劉邦の中身は、昔の気のいい劉兄いと変わらなかったたことが伺える。
こういう立場になったら、これくらいのことは言えなきゃとか、この歳になったらこう言う振る舞いをしなきゃとかに囚われず、俺は俺、ダメなところはダメ。素直に自分の弱さを認め、進んで人に教えを乞うたり、助けてもらう素直さが、劉邦の魅力であり、人を惹きつけた源泉であったのだろう。