今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

優れていることは欠点

(写真:猿の腰掛け)

■兼好法師曰く

有名な吉田兼好の徒然草の167段に曰く、

『人としては、善にほこらず、物と争はざるを徳とす。他に勝ることのあるは、大きなる失なり。品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉にても、人に勝れりと思へる人は、たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心にそこばくの咎あり。慎みて、これを忘るべし。痴にも見え、人にも言ひ消たれ、禍をも招くは、ただ、この慢心なり。 』

人は、自分の美点を誇らず、争いを慎んでこそ徳である。
人に優れていることは、却って大きな欠点となる。気品が高いとか、芸の才に優れているとか、先祖に誉があるとか、人より優れていると思っている人は、口に出さなくても、内心に自惚れを抱えているものである。慎んで、あまり思わないように心掛けるべきであろう。
人から馬鹿に見られたり、発言を訂正されたり、災難を招くのは、ただこの慢心である。

■優れていることは欠点、の意味

我々は人に優れたいと思う。
そのため、一生懸命勉強もするし、練習もする。また、向上心も大切だ。
なのに、兼好法師に「優れていることは、却って欠点だ」と言われては、身も蓋もない。
ならば、優れてはいけないのか?
いっそ努力もせず怠けていよ、と言うのか?
それでは、進歩も向上もなくなるから、世の中、食い詰めた人で溢れてしまう。

もちろん、兼好法師の真意は、そんなことではないだろうし、徒然草が書かれた当時の時代背景もある。
兼好法師は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての人である。
貴族中心から、武家中心に移行したとは言え、家柄や権威格式が幅を利かせている世の中だった。そして、身分や出自、先祖の功績によって、現代では考えられないくらいの格差社会だった。
出家の兼好にとっては、無駄な虚飾に振り回されている世の中が見苦しく思えたのだろう。出自や、一族の名誉のような、本来自分の努力とは無関係なところで貶めたり、角を突き合わせる。それで人から軽薄な人間と軽んじられることもあれば、また貶められた方は深く恨みを抱き、折あらばと復讐を画策する。
そんなことを日常で見聞きしていた兼好の、世の人に対する警鐘であると思う。

■持てるものと持たざるもの

最近時代劇を見てよく思うことは、生まれや家柄のようなどうにもならないところで、その後の人生が恵まれたり、大幅に制限される時代だったと言うこと。
好きあった二人が身分の違いで引き裂かれたり、軽輩故に生涯閑職に甘んじたり。
人格とか、能力とか、あるいは精進努力に関係なく、出自で差別されたり、それ以上の人生が望めなかったりする。
その中、身分に関係なく出世の道が開かれていたのは僧職である。本来、出家とは生死の一大事の解決を求める道だが、今日の大学受験のように、平等に開かれた出世の道として飛び込む人も多かった。
それに比べて、現代は努力次第でいくらでも成功の道が開かれている。この時代に生を受けながら、努力不足の自分が恥ずかしい。
しかし、努力次第とは言うが、やはり頭の良い人間にはかなわないと思う。持って生まれた才能や、身体能力、美醜は努力だけでは埋められない。
そして、ともすると、持てるものが、持たざるものを貶める。それは、程度の差こそあれ、今も昔も変わらない。
身障者にも平等に生きる権利があるとは言いながら、やはり健常者のグループに入るには高いハードルがある。身障者は身障者同士固まって生きることになる。
その身障者にしても、より軽度な人は重度な人に対して、優越感を持っていたり、あるいは同一視されることを好まない。
持てるものの持たざるへの優越意識、それは、兼好法師が厳しく戒めなくてはならないほど根深いものであり、我々人間にとって根源的なものである。

■現在は過去の集積

しかし、持てることを誇っていても、あくまで今現在のことであり、刹那の時間である。
与党の総裁とか、アメリカの大統領とか、最高権力者も、人生の僅か数年の間である。後は、昔大統領だった人と言われて、余禄で生きることになる。
美人を誇っても、年とともに容色が衰えるのはどうしようもない。よく往年の人気女優の現在の姿を特集しているが、野次馬根性で覗いてみる度、月日の残酷さが思い知らされる。
会社で、社長だ、役員だ、部長だと威勢を誇るが、ちょっとしたことで失脚することもあれば、退職すれば普通の老人になる。
つまり、今持てるものになったことは、過去の自分の努力や種まきの集積であり、それを過大に誇り、既得権益のように思い込んで慢心を持てば、いずれ種まきは尽きて持たざるものへ転落する。
誇るのではなく、持てるようになった自分の種まきを正しく見て、持ち続けるための努力をしなければならない。
しかし、何事も限りある世の中なので、いずれ持たざるものになった時を思い、兼好法師の教えのように身を慎むべきなのだろう。