今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

油断大敵

(写真:黄金色の夕暮れ その2)

■「油断」とは

「油断」とは、油と断つと書く。
意味は、大事な場面で気を許して、物事がおろそかになることを言う。
では何故、気が抜けておろそかになることを「油断」と言うのか。
一説によれば、仏典に根拠がある。
ある国に乱暴な王様がいて、家来たちに油を満たした鉢を持たせて往来を歩かせた。
彼らは「もし一滴でも鉢の油をこぼしたら命を絶つ」と厳命され、剣を抜いた別の家来が後ろについた。
家来たちは、必死になって油をこぼさないように鉢を堅持し、ついに無茶な王命をまっとうしたと言う。
ここから、油をこぼせば命を絶つ、すなわち、「油断」と言われるようになったと言う。

■慣れた頃が一番怖い

失敗をすると「油断をしました」と言う。
しかし、仏典の話では、油断をしたら命がない。
雪道走行中、すべったら大変と思うから、しっかり路面を見つめ、ハンドルに集中する。
だが、1時間以上そんな状態を続けていると、だんだん疲れてくる。慣れもあるから、そこでつい他ごとに気を取られる。
所謂、油断である。
そして、雪道にハンドルを取られて、車がスピンする。
実際はスピンする前にたて直せたが、山道だったから、本当にスピンしていたらと思うと今もゾッとする。
「九十里は百里の半ばなり」と言うが、慣れた頃が一番怖い。「好事魔多し」とも言う。
順風満帆、なべて事もなし、と言う時に魔が潜む。
ついつい油断をするからだろう。

■子供の事故やあれこれ

悲惨な事故や、痛ましい事件は、まさかと思うところで起きる。
以前、山奥のパーキングで、10歳の女の子の捜索を依頼する張り紙がしばらく掲示されていた。
朝8時ごろ、パーキングの宿泊施設の周りを散策すると出かけて行ったっきり、行方不明になったのだと言う。
事故か、事件かは定かでない。
しかし、娘も10歳だし、こんなのどかな山奥で滅多なことはなかろう、そう親が考えるのも無理はない。
それを油断だったと言えるのか。親御さんの気持ちになれば気の毒でならない。間違いなく、一人で散策させたことを後悔しておられるだろう。
また、吹田市で中学生の女の子と男の子が酷い死に方をしたのも、世評では、そんな夜遅く出歩かせている親が非常識であると言う論調が強い。
しかし、事件は家の近所で起きている。
解放的になる夏休みのこと、ましてや常に街灯で明るい近所の商店街。友達も一緒だし、自分が親だったら、やはり油断するのではなかろうか。

■危機意識を高めるには

サメの事故も、実は足の立つところで多いと聞いたことがある。
よもや、まさか、そう思うから油断する。
油断するから、事故につながり、事件に発展する。
要は危機意識と言うことだろう。
東日本大震災で、「釜石の軌跡」と言われる避難劇は、小学生たちが主導した。
子供たちは学校で、津波が起きた時の正しい対応を学んでいた。
「大地震の後は、大きな津波が来るから、とにかく高台に逃れろ。」
しかし、どんなに長生きした人にも、津波の記憶はない。ついつい、自分の経験に従って、よもや、まさかと事態を軽く見る。事件が起きた時、我々は早急に現状復帰を図ろうとする。そんなバイアスが働くから、地震の被害を収拾することに気がいって、津波の想定どころではない。
大人は、常識人であるほど動けなかっただろう。しかし、経験や常識に囚われない子供たちが動いた。そして、多くの人の命救った。
まさに、危機意識のあるべき姿を示している。
危機意識を高める。
「最悪を想定して、最善を尽くす」
危機管理の基本である。
「好事魔多し」「九十里は百里の半ばなり」「油断大敵」「勝って兜の緒を締めよ」
昔から、油断を戒める言葉は多い。
ついつい耳慣れスズメで聞き流しているが、今一度心したい言葉である。