今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

それは、自分が脱ぎ捨てた皮

(写真:雲、風、鉄塔)

■未熟な人を笑うなかれ

人間、最初から優秀な人はいない。
(どおしてお前は、こんなに分からんのだ)と言うところから始まる。
指導を任された人は、不慣れな新人が何かを仕出かす度に、頭から湯気を出す。
新人は新人で、またシンドイ。
何かする度に、たちまち怒号が飛んで来る。
こんなに1日を長く感じたことがあったろうか。帰りのタイムカードを押すたびにクタクタで、「また明日もこれかあ」と思うと帰りの足取りがナマリのように重い。
先輩は先輩で、新人が帰った後、困った顔で上司に相談する。
「あんな新人、初めてですよ。あいつ、この後モノになりますかね。」
すると上司の返答は、「いや、初めてでないよ。もっとひどい新人もいたさ。」
「えっ、僕、知りませんよ。」
「そりゃそうさ、だって君のことだから。」

■それは、自分が脱ぎ捨てた皮

意外に自分で自分は見えていない。
散々先輩に手を焼かせて、それでやっと少し使えるようになる。しかし、自分が成長してきたプロセスは忘れているものだ。
今から一年前、二年前、自分がどんな状態であったか。目の前の新人の方が余程しっかりしているかも知れない。
だが、どうしても今の自分を基準に考えがちである。
今を基準に考えるから、はるかに低いレベルの新人が許せない。つい、ダメな奴と腹が立ち、口調も厳しくなる。
そう、まるで蛇が今迄まとっていた皮を脱ぎ捨てて、その抜け殻を「なんと汚い皮だろう」と毒づくようなものである。

■幾たびも手間のかかりし

親がよく「まるで一人で大きくなったような顔をして」と愚痴っている。
子供がちゃんと自分の足で人生を歩き出せるまで、親はどれだけ身を削ってきたか。
口を出し、手を出し、支えなければ、とてもとても1日も暮れはしない。
だが、「お父ちゃん、お母ちゃん」と言っていた子供も、「構わないで、放っておいて」「ちゃんとやれるから」と言い始める。
少し足腰が立ってきたら、途端に親の手を振り払うようになる。いわゆる親離れである。自分で歩き始めたのだから喜んで良いことだが、親としては寂しい限りだ。
ただ問題は、子供がそれまで散々世話をかけてきたことを忘れてしまうことだ。親の苦労もどこ吹く風、一人で大きくなったような顔をする。
だから、親が年老いて立ち居振る舞いがままならぬようになった時、自分の受けた世話を忘れて親に毒づくようになる。
「幾たびも 手間のかかりし 菊の花」
今のように世間に認められるようになるまで、どれだけ育てられてきたか。
恥ずかしいことに、それを忘れてしまっているのが自分である。反省させられる。

■与えられたものを返す番

親に対しては言うに及ばす、会社の先輩に対しても同じである。もし自分の方が仕事ができるようになったとしても、そうなるまでに育てて貰った恩がある。
向こうは自分が教えたと言う自負があるし、先輩だと言う気負いもある。ついつい後輩に対しては上からモノを言ってくるかも知れない。だが今の自分は、半分先輩の台を借りて目線が上がっていると謙虚に受け止め、多少のことは腹に納めても良いと思う。
あと、慣れない後輩に対しては、今度は自分が育てる番だと心得て、丁寧に対応したいものだ。
自分が先輩の台を借りているように、後輩にも自分の台を貸してやるのだ。
自分だけ借りておいて、台を持たない後輩と同じ条件で張り合うのは不公平と言うものである。