今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

カウントダウン

(写真:台風後晴れ)

■全ての人間に共通の財産

どんな富裕な家に生まれても、極貧の環境に育っても、健常者に生まれても、体に障害があっても、すべての人は共通の財産を持っている。
それは、人生の時間である。
人生の時間とは、人間が生まれた時から、死ぬまでの80年乃至100年の間のことである。
もちろん人によって長短はある。
長い寿命は、この世のどんな宝より貴重であり、羨望される。ただ、自分がそんな宝を持っていることに気がつくのは、その宝を殆ど消費してしまった後と言うのは、なんとも皮肉である。

■欲しいものを手に入れるとは

対して、我々の日々の活動を一言で総括すれば、「欲しいものを手に入れるため」と言える。
欲しいものには、いろいろある。
まずは、お金。
人生の大部分の時間を労働に捧げるのは、ひとえにお金を稼ぐためである。
お金が無ければ生きられない。 また、お金があれば、願いはだいたい叶う。
あと、家族が欲しい。子供が欲しい。
家族が出来たり、子供が生まれれば、自分の時間は大幅に制限される。それは人生の時間で、家族や子供を購っているとも言えよう。
第一子が生まれた時に、シッダルタ太子(後のお釈迦様)は、自分の子供にラゴラ(束縛者)と名付けている。
家族や子供は、生き甲斐、安らぎを与えてくれるが、身を捧げて初めて我々の手に入る。
健康が欲しくて、毎日散歩、ジョギングに時間を使う人もいる。ただ、これらは寿命を延ばしてくれるので、プラマイゼロと言ったところか。
我々は、等しく与えられた人生の時間を支払って、これら欲しいものを手に入れている。
これが、人生の実態である。

■砂時計は止まらない

欲しいものを求めて、毎日走り回っている。
そんな毎日の中で、フッと気づく。
それは大抵今頃である。
ああ、今年もあと残すところ、△△日か。
この間、新年の挨拶をしていたと思ったのに、一年早いな。
ああ、また一年経ってしまったのか。
一年365日、大抵の日は忘れているが、年末のこの時期と元旦に思い出すのは、人生と言う砂時計からサラサラと砂が落ちていること。そして、その砂時計が、休まずに我々の人生の時間を刻んでいたと言うことだ。
気がつけば30、はや40、50、そして60、70。
「あっと言う間にこの年になりました。」
誰しも、驚いたように口にするのは、この砂時計の刻む時間を忘れている証拠だろう。

■藤蔓と白と黒のネズミ

古来、人間の寿命は藤蔓に例えられる。
細い藤蔓、つまり、一生はあっと言う間に過ぎ去る。
ただ、自分の一生が藤蔓のように細く、儚いものと分かるのは、大抵晩年である。
「露と落ち露と消えにし我が身かな 難波のことも夢のまた夢」
人生の大部分を消費して、天下と言うでかい買い物をした豊臣秀吉。その成功の象徴として大阪城を建立し、金の茶室をしつらえた。
さぞ、本人は満悦だったろうが、その分人生の時間を消費したことに気づかなかった。
そして、それに気づいた驚きが、彼のこの辞世である。
細い藤蔓だから、早晩切れる。
それを削り取って、さらに細くしているものがいる。
それは、白と黒のネズミである。
白のネズミは昼、黒のネズミは夜を表す。
白と黒のネズミが交代交代で、藤蔓をかじって細くする。それは、昼と夜が過ぎる度に、我々の人生の残り時間が少なくなっていることを例えている。
「ガリガリ、ガリガリ」
昼と夜が巡る度に、我々の命を削り取る音がする。
今は何をしているのか。
悔いのない時間を過ごしているか。
藤蔓が切れるまでの、カウントダウンは今も休まずに続いているのである。