今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

もしも未来が見えたなら

(写真:街角のジャック・スパロウ)

■もしも未来が見えたなら

よく未来予知が小説や漫画の題材になる。
「恐怖新聞」も、そんな作品の一つである。
「恐怖新聞」は、頼みもしないのに、午前零時に新聞受けに入っている。
開いて見ると、悲惨な事件や、巻き込まれて死ぬ人の様子が報じられている。
「いつ、起きたんだ」と確認すると、日付は翌日であったり、今日の午後であったり、とにかく今より未来になっている。
「なんだふざけたことを」と読み捨てておいたら、その新聞の通り寸分の狂いもなく、事件が起き、人が死ぬ。
そして、そんなことが何回も続くとさすがに気付く。
「これは、未来を予知する新聞だったんだ」

■幸も不幸もみんな分かったら

そう新聞のタイトルは「恐怖新聞」。
悲惨な未来を伝える為に、投函される。
この記事の通り人が死ぬとしたら、それが分かった人間はどうするか。
人は人、自分は自分と言っていられない。
ましてや、近しい友人なら尚更だ。
事件の日時に、その場所に行かないように諭したり、行動を変えるように進言して、なんとか最悪の運命だけは回避できるようにする。
当然そう言われても、相手は半信半疑だろう。中には怒り出す人もいて、主人公はいつも苦労するが、なんとか事件の時間帯に相手の行動を変えることに成功する。
しかし、どうにも回避できない運命に押し戻されて、最後主人公の目の前で記事の通りの無惨な姿で果てるのだ。
まさに、絶望のみを与える「恐怖新聞」である。

■今なら未来は変えられる

これは、もちろん創作の話である。
しかし、世の中には、本当に未来が見える人が存在する。
いかがわしい霊能者や、エスパーの類ではない。
例えば、お医者さんや、有能な会計士などがそうである。
「このままでは、あなた、50を過ぎる時に成人病の発症リスクが高まりますよ」とか、「この財務状況では、早期に手を打たなければ、早晩経営が行き詰まりますよ」とか。
地球温暖化を警告する科学者も、未来を見て全人類にアラートを発している。
中には、こんな未来を語る人もいる。
「タライから、タライに移る50年」
これは、禅僧一休の言葉である。
50年とは、当時の日本人の平均寿命である。つまり、人の一生の長さを言う。
最初のタライは、人間が生まれた時に産湯を使うタライ。そして後のタライは、人間が死んで入れられる棺桶である。
裸で生まれてタライで洗われ、一生いろいろなことはするが、結局裸でタライに放り込まれて葬られる。これが我々の行き着く未来だと言うのである。
全く身も蓋もない言い方である。そうしたら、我々は日々無駄事に時間を費やしていることになる。しかし、こればかりは否定しようがないから頭が痛い。
だが、これらのリアルに存在する預言者達と、「恐怖新聞」には明らかな違いがある。
すなわち、「恐怖新聞」の未来は変えられないが、医師、科学者、禅僧一休の言う未来は変えられるのだ。

■勇気を持って声にだそう

なぜ、生身の人間にも未来が分かるのか。
それは、現在が過去の集積であるように、未来は現在の延長であるからだ。
分かりやすく言えば、毎年2づつ減るものは、5年経てば10減ることになる。
10減ったら、果たして我々の運命や如何。
しかし、2減るものを1に留める。あるいは、プラスに転じる。そうしたら、5年後の運命は全く違ったものになる。
未来を変えるとはそう言うことである。
思えば、想定できるはずの未来を、我々は余りにもそのまま手付かずで放置していないだろうか。
例えば、毎年2キロずつ増えていく体重が分かっていて放置していないか。
毎年、目減りしていく業績はどうか。
気象庁から報告される最高気温が少しずつ上がり続けているのに、無関心を装い続けて大丈夫か。
あるいは、今自分が日々打ち込んで、時間やコストをつぎ込んでいるものの中に、果たして臨終の床の自分を喜ばせるものがあるのか。
「恐怖新聞」の未来は変えられなかった。
しかし、我々に見えた未来は変えられる。
勇気がいるけど、気がついたものから声に出したい。