今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

ほとんどの人は教えられた範囲でものを考える

(写真:夏草)

■コミュニケーションの壁

考え方を共有しようとすると、いつも相手との壁に突き当たる。
こちらが言っていることをなかなか理解して貰えない。
同じ日本人だし、同じ言語で喋っている。
日頃取り組んでいる仕事も同じなら、お互いに頻繁に交わす専門用語もかけ離れている訳でない。
しかし、肝心なところが通じない。
特に、今までにない新しい試みには、顔一杯に???が浮かんでいる。
自分は別に変なことは言っている訳ではないのに、なぜ伝わらないのか。
自分のプレゼン能力の低さが恨めしい。

■コンテンツと言う壁

日本人同士、いくら理路整然と話をしているつもりでも、話が伝わらないのには理由がある。
それは、人間は自分の知識や経験、あるいは体験を超えてものを考えられないからである。
自分にとって、余りに自明なことであっても、相手にそのことを理解する知識や経験がなければ共感を得ることはできない。
これを、コンテンツと言う。
分かりやすく言えば、踏み台のようなものである。
人それぞれ、分野に応じて知識の浅深、経験の多少が異なる。それによって、一つのもの柄でも見方が異なる。
例えば、窓から顔を出して外の世界を覗く時、乗っている踏み台の高さの違いによって、見える景色が異なるようなものである。
高い踏み台に乗っている人には、遠くの景色までよく見えるが、低い踏み台に乗っている人は近くの景色しか目に入らない。
「ほら、あんな遠くに可愛いお店がある」と言われても、近くの景色しか見えない人の目には入ってこないし、分からない話をされても不満にしか思えないだろう。

■相手に求めがちな僕ら

知識や経験は人によって違いがあり、またそれによって人それぞれの理解をする。
しかし、我々が相手に理解を求める時に、どこまでそのことを念頭に置いているだろうか。
相手の乗っている踏み台の高さも考慮せず、何故同じ景色が見えないのか、といきり立ってはいないだろうか。
国家間のことでも、西洋文明で言うところの近代主義は国によって理解に差がある。
それは民主主義や自由主義経済と言う、一部の先進国が無二の教条として奉っているものである。
その浸透度合いや、理解の程度を無視して、無理やりに持ち込んだ結果、いびつな自由経済が生まれて、格差や飢えに苦しむ人が大量に発生する。あるいは、民主主義を理解しない蛮族と見下げ果てて、武器を与えて都合良く利用しようとする。結果は、内戦やテロの頻発である。
コンテンツ、つまり踏み台の高さの違いを埋めることをせずに、同じ目線を求めるだけでは、このいびつな世界は変わらない。

■現場に立つものの責任

もっと身近なことでもある。
我々現場に立つものは、職位に関係なく、自分が与えられている仕事に、図らずも高い踏み台を持つ。
対して、全体を動かす力を持った人たちは、現場の細かい事情まで知ることはできない。
だから、現場で起きているいろいろな問題や、有効な改善提案を上奏するも、すぐにレスポンスを貰えないことは日常である。
それは、踏み台の高さの違いが原因である。
職位が高いから何でもお見通し、と思うのは間違いだ。
当然、踏み台の高さを埋めるのは、高い踏み台を持つものの役目である。だから、現場に立つ我々の仕事は、役職者に適切な現場の情報を提供することである。
踏み台の違いを考慮せずして、自分の話ばかりをしたり、上の無理解に憤って、失敗ばかりしていないか。
立場に寄らず知見が深いものが、踏み台の高さの差を埋めるよう努力しなければならない。
そうは言っても、その難しさは身にしみているし、失敗ばかりしている。しかし、やはり大切な仕事だと自覚している。