今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

生まれるのに忙しくない人は、死ぬのに忙しい

(写真:ジ・エンド・オブ・ザ・デイ その2)

■子供の自殺

小学2年生が自殺する。
なぜ、そんな幼い子供が自分で死ねるのか。
小学2年生と言えば、まだ8歳である。大人の言うことの何分の一も理解できない未熟な時期である。
それが、自分で自分の命を断つと言う選択を本当にしたのか。
本来ならば、人間は80になっても、90になっても生に執着する。
身寄りもない老人を施設が保護をした時、職員が聞いた。
「もし、何かあった時、延命を希望しますか?」
「できれば、延命を。」
幸せな人生でなかったろうし、孤独で辛い老後だったはずだ。
しかし目の前に死が突きつけられると、どうしても命にしがみつく。
それくらい、人間の生に対する執着は強いはずだ。なのに、なぜ子供が死ねるのか。

■死ぬのに忙しい人

自殺を選ぶのには、いろいろ原因があるだろう。
この世の苦しみに耐え切れず。
人に迷惑をかけて、良心の呵責に耐え切れず。
本当は死にたくないのにのっぴきならない事情に追い込まれて。
だが、訳もなく死に急いでいる人もいる。
「自分で死ぬ勇気がなかったから、人を殺せば死刑にして貰えると思った。」
通り魔と化して、路上で何人もの命を奪った男の言葉である。
まるで、死ぬために生きている。
死に場所を求めていると言う格好の良いものでない。死ねれば良い。死にさえできれば良い。
とにかく死に急いでいる。
また「さっさと生きてさっさと死にたい」と言う若者の言葉を聞くと、ただただ死に急いでいるとしか思えない。
それなりに生い立ちや、環境等考慮すべき事情はあると思う。しかし、彼らに共通するのは、命の意味を感じていないと言う点である。

■命の意味の軽い人

命の意味を感じられない。
また、自分の人生に価値を見いだせていないとも言える。
価値がないものは簡単に捨てられる。
財布に入っているお店の割引クーポン。
なぜ、財布が分厚くなっても取っておくのか。
それは、そのお店に行った時に割引を受けられるから、お金と同じ価値がある。
しかし、たまに整理すると、期限切れのクーポンが大量に見つかる。そうしたら、ゴミ箱にためらいもなく捨てる。財布が軽くなったと喜んでいるが、価値が感じられなくなったものは捨てるのに何のためらいもない。
命も同じである。
自爆テロに走る若者たちも、心に深い絶望感を抱えている。心が死んでいるとも表現される。心が死んでいる人間は、自分が死ぬことも人を殺すこともなんとも思わない。

■生まれるのに忙しくない人

命の意味を感じられない、つまり、命の価値が軽い人である。
人間は、時間をかけて命、そして人生の意味を知る。
子供が自分で死ぬなんて想像もつかないが、自分も一度だけあった。8歳くらいの頃、仲の良い友達を泣かせて、これは生きていられないと思った。包丁で我と我が身を刺して死のうと思ったが、包丁が見つからないうちに友達とも和解できて、後はケロンとしていた。
なんとも馬鹿な話だが、こんなものである。
死ぬと言うことも、自分の命の価値も理解できていないのだ。しかし時間をかけ、自分の命の価値を理解した今は、なんと愚かな考えをしていたかと自嘲しかない。
生まれるのに忙しくなかった人、つまり命の価値を我と我が身で確かめて来なかった人。
そして、まだ心が生まれていない人。
そんな人が死に急ぐ。
いや、自分に言わせれば、起動中のコンピュータの電源を落とすようなものである。
デスクトップまで立ち上がって、いろいろなサービスが動き始めた後では、さすがに電源ボタンを直接押すのは、コンピュータへの影響が心配でためらわれる。しかし、まだOSが起動中で英字が走っている時は、さほどためらいなく電源を切ることができる。
言わば、そんなもの。
自殺も、テロも、戦争も、通り魔事件も、公害を垂れ流すのも、みんな命の軽い人間がしている。
命の価値をみんなで確認するにはどうしたら良いのだろう。