今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

善意の世界

(写真:雲の通い路 その1)

■今の世界は善意を根拠に成立している

今、我々の生きている世界は、善意を根拠に成立している。
それは、急速に広がるオープン化、グローバル化の流れのことである。
例えば、インターネットを通じて、世界に向けて大きく玄関を開け放つ。すると、どんな遠方からでも、光の速さでやってきてドアをノックしてくる。

Facebookで実名を公開し、プライベートを投稿する。家族の顔写真を載せ、居住区が特定できるような情報を公開する。

人とものが、国境を越えてやってくる。
昔は、こんなに簡単ではなかった。
技術の進歩と協調意識の高まり、そして、マーケットを広げたいと言う企業の意向が働いて、入管や税関審査の簡素化、関税の撤廃が行われる。

これら、全て世界中が善意の友人で満ちていると思わなければ成立しない。
この世界は善意を根拠に存在している。

■イソップの教訓

ある朝、子羊が小川で水を飲んでいた。
そこに子羊を狙って、飢えた狼が忍び寄る。
いつもなら、いきなり獲物に飛びかかる彼も、あまりに無邪気な子羊を襲うのが少しためらわれたのか、もっともらしい理由が必要だと考えた。

「おい、お前、何の権利があってオレの川を汚すのだ。お前が川の中を歩き回るから、川底がかきまわされて泥水になるではないか。」
子羊は、突然現れた狼にびっくりしながら必死で反論する。
「僕は川の中を歩いてなんかいません。唇の先をちょっとつけて水を飲んでいるだけです。それに、あなたがいるのは、川上じゃありませんか。」

なおも狼は言い募る。
「お前、去年俺の悪口を言っただろう。」
「去年は、まだ僕は生まれていません。」
「ならば、お前の兄貴が言ったんだろう。」
「僕には兄弟はいません。」
それで、窮した狼はついに、
「お前が何と言おうが、俺がお前を食うことは変わらないぞ!」と叫んで子羊に飛びかかったと言う。

子羊は相手の善意を信じて、一生懸命理を通せば、狼に食べられずに済むだろうと思った。しかし、最初から悪意をもって近づいてくる相手には何を言っても無駄である。

■現代社会の岐路

自由経済、民主主義は、人類が長い時間と多大な犠牲を払って獲得したものである。
そして、これらは相互依存や協調体制が前提である。
太平洋戦争後、戦勝国のアメリカは、民主主義を無二の教条として、敗戦国である日本に持ち込んだ。戦争に勝つ為には、爆弾を抱えて敵艦に体当たりすることも辞さない狂信的な国に、二発の核を落として恭順させ、民主主義を植え付けて、アメリカを中心とする協調体制に組み込んだ。
これはアメリカにとっては成功体験となっただろう。

その後、アメリカはこの勝ちパターンを各紛争地で試した。しかし、ベトナムやアフガニスタン、イラクと全く通用せず、苦汁を舐め続けている。
自分の信じる善意の花束を自信いっぱい差し出しても、拒否されてしまう。
だが、それでも「そんな連中はごく少数だ。」「一部のならず者たちだ。」と言う。
確かに、ほとんどはアメリカの言う善良な人間かも知れない。
だが、無差別な空爆で、恋人を、親を、子供を殺された人たちがいる。そして、その恨みは、理屈や理想だけでは消え去るものでない。

確かに数は、少ないだろう。
しかし、悪意の相手は、少数でも善意を前提とする社会を崩壊させることができる。
我々が思いもしない、そして安息を求めに来る日常の場所に、突然現れて引き金を引く。
するとそこは、善意を前提とした安息の場所ではなく、いつ悪意に踏み荒らされるかも分からない危険地帯となる。
兇行者達は隣人となり、人々はおののき、猜疑に満ち、堅く家の戸を閉ざして、自由経済は崩壊するだろう。
この彼らにとっての勝ちパターンは、もはや多勢対無勢の戦いでない。たった一本の小さな悪意の針が、善意の社会と言う巨像を倒すのだ。

すると、向かう先は言論統制、思想統制、そして経済統制。
各国は、門戸を堅く閉じ、異民族を排除し始め、物の行き来は途絶え、持てる国と持たざる国の格差が現れてくる。
持たざる国は、糧を求めてまた武器を取るかも知れない。
かつての日本のように。
そして、善意を前提とする社会の崩壊は、人が人を殺さなくなった時代の終焉となるだろう。

まさに、今は善意を前提とした社会が岐路に立たされているのである。
軽薄な扇動や、偏った正義に流されぬよう、今我々が享受している善意に満ちた世界を次世代につなぐ覚悟が求められている。