今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

自分が何者であるか、決めるのは自分

(写真:黒蝶)

■自己紹介

「皆さん、今から一言ずつ自己紹介をお願いします。」であったり、
「皆さん、近況を書いてください。」であったり。
正直困る。
何故なら、同窓会でも、勉強会でも、周りには結構立派な肩書きの人が多いからだ。
年齢的に仕方がない。
素直に今まで怠惰だった道のりを反省すべきか。

「地方の新聞社で、編集長を務めています。」
「海外支社の責任者です。」
「弁護士事務所を開業しています。」
「◯◯(大手企業)の部長です。」
いやはや、感心すると同時に肩身が狭い。

しかし、自己紹介の時に、会社の看板であったり、肩書きであったり、自分の本質以外を口にするのは何故なんだろう。
一つは、同窓会では、同じく教室で机を並べでいたもの同士、恩師に「こんなに立派になりました」と報告をする。その時、肩書きは一番分かり易い。
「妻一人、子供二人、食べるに困らない仕事と、あと至って健康です。」
確かに、これ以上幸せなことはないだろうが、それだけでは伝わらない。
やはり所属や肩書きは、世間中で評価を共有し易い。

■人の評価と自分の価値

しかし、本当の人間の価値は、企業の看板や肩書き、また年収で決まらないことは身に沁みている。
「この人、凄い」と、心底感心させられたリトル・ジャイアンツは、意外に零細企業の、しかも課長さんだったりする。
飛び込んだ会社で、一心不乱に仕事に打ち込むうちに、出世することを忘れてしまったんだな。
あるいは、その人を現場から出すのは、大きな損失と会社が認めているのか。

ハンデを負った人は、社会的弱者と見なされる。そして、社会全体で扶助すべき対象としてサポートを受ける。
逆に言えば、世間からは高い評価を得られていない。そのため我々と違って、就職一つ、結婚一つにたいへんな制約を強いられている。
言ってみれば、波の高い中、必死になって泳いでいる人たちである。しかし、その分、自分を見つめ、深い人生哲学を持っている人がいる。
社会的弱者と思って、上から目線で接すると、逆に優れた人格や人生哲学に触れて恥じ入ること頻りである。

我々は、つい自分の所属団体や肩書きで、自分を語ろうとするが、それと自分が何者であるかは別である。
そして、自分の本質とは、人が決められるものではない。

■裸の自分

人間の本質とは、その人の晩年に現れるものでなかろうか。
例えば、陸軍大臣を務め、日本の先頭切って太平洋戦争を戦っていたのが東条英機の本質なのか。はたまた敗戦後、富も権力も家族からも全て引き離されて、戦争犯罪人として巣鴨の刑務所で、薄い毛布一枚にくるまっていたのが彼の本質か。

ロシアの文豪、文学の父と、世界中に名前を響かせたのが、トルストイの本質か。はたまた、晩年妻との不仲が高じて、ついに家出の果て、地方の駅で肺炎のため一人寂しく死んでいったのが彼の本質か。

一時的にせよ、地位や名声に恵まれたんだからいいじゃないか、と言えるかも知れない。
ならば、同じ人生を送ってみたいと思うか。
やはり、最後に満足して笑って死ねる人生でなければ嫌である。
富や、地位や名声は、人間が寄ってたかって作るものである。しかし、潮目が変われば、そんなものは離散する。
すると、最後に残るものがその人の本質である。

一生不遇を囲い、貧しさから抜け出せないまま、それでも高潔さを失わない人がいる。
周りから世間的評価を得ることはできなかったが、それら一切遅かれ早かれ身からは引き離されるものである。
その代り、自分の満足いくように思い切り生きることができた。
そうした時、我々は彼を不幸と呼ぶことができるだろうか。

自己満足と言われるかも知れないし、また怠惰であって良い言い訳にしてもならない。
しかし、自分の本当の価値は自分が決めなければならない。
現代は、皆んなが車で走り出せば、つられて一緒に走り出す。家を建てれば、負けじと自分も家を建てる。学歴社会だからと、人格形成よりも学歴争いに一生懸命。
つまるところ、周りが走っているから、自分もつられて走っているだけではないかと反省される。
そこに自分はなく、かと言って、走った先に幸せがあると誰も保証してくれない。

他でもない自分の人生だから、盲目的に周りに合わせるだけじゃ芸がない。
自分の価値は自分で決める。
そして、堂々とそれを自己紹介できるようになりたい。