今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

実践しないのは、知識がないのと同じ

(写真:ビーンズ)

■したり顔「本当は分かっていたんだ」

地震や津波、噴火等、大災害が起きた時、必ず出てくるのが、「私は事前に予言していた」と言う人種。
しかしこの手の話は、後から思い返すと、「分かっていたなら何故言わぬ」と腹立たしくなる。
何故なら、もし分かっていたなら、早めに警告して多くの人を救えたではないか。
「イタズラに混乱を招かないためだ」と一応もっともらしい言い訳をするが、要は自分の都合に合わせて、後付で言い出したのだろうと勘ぐりたくなる。何にせよ、被災者や遺族の心を無視した、酷い言動である。
分かっていたなら、言わずにおれぬ。言わぬのは分かっていなかった証拠でないか。

■ホンモノとニセモノ

気が付けば、我々もこんなしたり顔をしていることに気がつく。
地震や津波ではないが、人に具合の悪いことが起きると、さもしたり顔で、「ホラね、やっぱりこうなると分かっていたんだ」と言いだす。
なら、何故分かった時に言わぬ。
後からなら、何とでも言える。

いや、なんとなくは分かっていたのかも知れない。
「これってさあ、お客さんが買う理由がないんだよね。大量に在庫を抱えてホントに大丈夫かな。」
「なら、それ言えば?」
「えっ?だって、一応会社の方針だし。」
そんな会話をしていたかも知れない。
でも、根拠をもって会社に説明することはできなかった。
なら、それは本当に分かっていたことになるのか。実際、行動に起こせないレベルなら、その知識はホンモノと言えるか。
そして、結局、大量に在庫が残った時に、「だから、俺が言った通りじゃん」としたり顔をする。
でも、そんなのは後付で何とでも言える。
そんな知識はニセモノである。

自分自身も、よく反省する。
人に負けたくないから、それなりに勉強する。知識を集める。
そして、ここぞとばかりに披露して悦に入る。
だが、それはニセモノの知識である。
何故なら、実践がともなっていないから。
持っているだけなら絵に描いた餅である。
自己満足である。
人は一瞬感心はするが、すぐにニセモノと見抜くだろう。
ホンモノとは、100の知識より、1の実践である。

■行動で語る

知識を得ることは、僅かばかりの努力をすれば可能である。
しかし、実践は、どんなに小さなことでも継続が必要である。
例えば、健康づくりの為に毎日20分歩こうと決めたとする。
もちろん、1日20分くらい、一駅向こうまで歩けば簡単に達成できる。たいしたことではないし、へえ!と感心されるようなことでもない。
しかし、遅くまで残業した日に、さらに20分帰る時間を遅らせてまで、健康づくりに励めるだろうか。
ついつい、「今日は特別」と穴を空ける。ところが、それが1日、2日と重なり、いつの間にか、たかだか20分が苦痛になる。
なかなか習慣化することは難しい。

つまり、どんな小さな実践にも困難はつきまとう。そして、それを不断の努力で乗り越えなければならない。
例えば、今日歩けなければ、明日40分歩く。そうして、帳尻を合わせて1日も欠かさず、たゆまず継続してこそ習慣化する。
実践しなければ、落ち着かなくなる。

そこに物知りの友人がいて、「実際脂肪が燃焼するのは20分過ぎた頃からだから、意味ないじゃん」としたり顔をする。
しかし、実際、健康になるのは自分であって友人ではない。
知識だけでは健康づくりはできない。

すべからく、この習いである。
たった一つの実践であっても、実際に汗をかいて行動すること自体が価値である。
分かっていたさ、としたり顔をしたところで、その知識に行動がともなわなければ無いに等しい。
多く知るより、一つことででも汗をかいて実践することが尊い。