今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

人が人を殺さなくなった訳

(写真:東名高速道路)

■ぶっ飛んだ監督

最近、ある映画監督の新聞紙上での発言が物議をかもしている。
簡単に言えば「敵対国家に攻め込まれたら、まずは降伏せよ。その上で、首相や政府が交渉すれば良い」と言うのである。
独特な世界観を持った監督で、どちらかと言えばバイオレンス派。
それが、平和主義者ですら、耳を疑うようなことを言い出すものだから、思わず「ウケ狙いか?」と勘ぐられる。
もちろん、前後の流れを読めば無理のない論理の帰結かも知れない。
だから、発言の一文だけを取り上げて批評するのは避けたい。

■人が人を殺さない時代

我々は、常に周辺諸国との紛争の脅威にさらされている。
しかし、戦後70年、同盟国の傘に守られて、自国の経済活動のことに専念できた。
何もしなくても、自動的に平和が守られる仕組みにドップリ浸かるうち、自分たちの立場すら忘れてしまった。
いわゆる「平和ボケ」である。
そこへ、戦後70年と言う節目もあり、安保法案と言う波紋もあり、この夏は日本全体がこの問題と向き合った。

国民それぞれが、自分の信条思想によって、安保法案を支持する人、反対する人、関心のない人に分かれた。
それでも、目立った行動は、議事堂前の市民デモくらいだった。しかし、自分の見る限りネットでの議論は活発である。
その内、文化人の大勢は「戦争反対」である。
マスコミも同調する。
もっとも、マスコミが政府のアンチテーゼとして働いているのなら喜ばしい。

また、現時点、現地域に限らず、もっと大局的史観に立つならば、この対立にも新しい視点が与えられる。
それは、昨日も投稿した通り、世紀を追って、人が人を殺さなくなっていると言う統計上の事実である。
つまり、かつて人類が日常的に行ってきた戦争と言う行為が、歴史の過程の中で非日常的行為へと認識が変わって来たのである。

■非ゼロ和ゲーム

ビジネスの上では、シェアを拡大すること、競合を打ち倒すことは善である。
しかし、その戦いに負けた企業は退場を迫られる。
社員は職を失い、社長は借金返済ができず自己破産する。中には、命まで断つ人がいる。
だから、実際弾の飛び交わないビジネスの戦いも、本質は殺し合いである。
ただ、社会的な救済策が用意されているので、本当に命を断つ人はごく少数である。

思えば、昔の領土争いも同じ感覚だったのではなかろうか。
弱肉強食、強いものだけが全てを手に入れる。土地も、食料も、金銀も、命ですら。
所謂、ゼロ和ゲームである。
ゼロ和ゲームとは、幸せの絶対量が決まっていて、誰かが幸せになるためには、誰かが不幸にならなければならないと言う考え方。
ごく限られた肥沃な土地を手に入れたものだけが、腹一杯食べることができる。
その為に、力づくでその土地を奪い、元からいた人たちには何処か他に行って貰わねばならない。しかし、先住民が必死で抵抗すれば、そこは命がけの殲滅戦となる。

それが、産業革命以降状況は一変する。
投入された蒸気の力は、土地の生産性を飛躍的に高めた。
そして、至るところに腹一杯食べることができる土地が現れた。これでもう殺し合ってまで、食料を奪い合う必要はない。
だから、産業革命以降に人が人を殺す数は激減する。
ゼロ和ゲームが、非ゼロ和ゲームに変わったのだ。

現代のビジネスに於いても、企業が進んで自分のノウハウを公開し、協力企業にビジネスチャンスを与えている。
すると、そこで拡大したビジネスが、また自分自身のビジネスの規模を押し上げる。
所謂、エコシステムの考え方が広がっている。

今の世界でも、政治的には敵対する国であっても、民間レベルでは無くてはならないビジネスパートナーだったりする。
つまり、世界規模の分業や、相互扶助が、狭くなった世界の中で拡大している。
自国の幸せは、自国だけでなく、周辺国、同盟国との協調なくしては成立し得ない。
ウィンウィンの国際関係が、非ゼロ和ゲームの現代の姿だと思う。
そんな視点で、今の国際関係を見ると他の姿が映るのではないだろうか。