今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

敢えて目線をずらす

(写真:蟷螂の斧)

■子供対子供

「ああ、お兄ちゃん!私の取った!」
「バアカ!これはもともと僕んだ。」
「何言ってんのよ。ここから、こっちは私のでしょ。」
「誰がそんなこと決めたあ?ここまで僕んだ。」
「ねえ、お父さん。お兄ちゃん、私の取るう!」

そう振られた父親は、兄妹の仲裁に入る。
「ほら、ほら、ケンカしない。お父さんの分を分けてやるから。仲良く食べなさい。」
そうして子供たちは、やっとしぶしぶながらも納得をする。

これを、子供たちだけで解決を図ったらどうであろうか。
目線が同じで、都合が拮抗しているもの同士、いつまでたっても結論が出ないどころか、ますますこじれるだけだろう。
何事に於いても、少し目線が高い第三者の介入で、膠着していた状態が動き始める。
よくあることである。

■10返しだ

「やられたらやり返す。10倍返しだ。」
人気ドラマ、半沢直樹ですっかり有名になったフレーズである。
非常に耳触りもよく、スカッする言い回しなので、子供たちまでが口にするようになった。
でも、何故10倍返しなのだろう。
何故、1倍返しや、2倍返しではダメなんだろう。

それは、ちょっと手を出したら10倍にして返すような相手には、絶対やり返そうとは思わないからだ。
昔の時代劇もそうだった。
お武家のオイタが少し過ぎて、間違って罪のない町人でも手にかけようものならたいへんである。たちまち桃太郎侍なんかが乗り込んで来て、一族郎党40人余りが皆殺しになる。
10倍返しどころか、40倍返しである。
これは酷すぎると思う。
しかし、桃太郎侍が手にかけたお武家や、その家臣の縁故筋から、命を狙われることはついになかった。
それは、そうである。そんな狂犬、誰も怖くて手が出せない。

しかし実際は、仇討ちが仇討ちがを生み、さらに、その遺族が仇討ちをして、ついには、両家血みどろの殲滅戦に突入することはあったようだ。
そのため、江戸時代には、重仇討ち(仇討ちの仇討ち)は禁止されていた。
これも、当事者同士では収拾がつかなくなるなるので、国家権力が介入して、一応の収拾をした例である。

■どちらかが大人の役をする

利害が拮抗しているもの同士、進むも退くもならずに、どん詰まってしまうことは日常にもある。
例えば、会社での担当者同士の行き違いとか。
「お客さんのことを考えたら、こんな状態では出せないはずだ!」
「もう、出荷日まで決まっているのに、今更手なんか入れられないよ。それに、この部分に不都合を感じるお客さんは全体の何パーセントいるって言うんだ。」
どちらも、間違ったことは言っていない。
しかし、主張は拮抗している。
このまま議論を重ねても平行線だろう。
そんな時は、第三者の判断を入れる。
例えば、少し目線が上の上司とか。
「これは、納期を調整してでも対応すべきだろう」であったり、「そんなに影響はないはずだから、そのまま出荷しよう」であったり。

普通は、相手の気持ちや状況を考えて、自分の方から合わせる。
だから、お互いにそれなりに噛み合う。
ところが、突如そんな余裕がなくなる時がある。
そして、互いに自分の都合を主張し始めて収拾がつかなくなる。あとは、「ここで引いたら舐められる」とばかりに、角を振り立てて相手に突きかかることばかりを考える。
そうしたら、もう泥沼である。
だから、そんな時は、第三者に仲裁の労を取って貰う。
利害関係者同士なら、第三者機関。
業者同士なら、お客さん。
夫婦喧嘩なら、子供。

しかし、そうなる前に、なんとか争いを避ける方法はないのだろうか。
いつも思うのは、自分の方から少し目線を上げることである。
子供対子供は喧嘩になる。
しかし、子供対大人なら喧嘩にならない。
相手が感情的に突っかかってくることがある。
それは少し違うんじゃないかと、相手の論理の理不尽さに閉口する。
酷い言われ方をして、黙っていると負けたような気持ちになる。
それで、同じ対応をするとどうなるか。
まさに、子供対子供である。

そんな時は、一歩引いてみる。
大人になる。
相手の気の済むようにしてみる。
その上で、第三者に調停を頼めば、エネルギーも、時間もずっと少なくて済むだろう。
言われっぱなしが情けないのでない。
自分の方が正しい、その結論に早く到達する為に少しだけ遠回りするのだ。
結局、最後は正しい方に軍配が上がるのだから。