今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

退場者には冷淡な社会

(写真:命の残り火)

■ただの人

かつて、大野伴睦と言う政治家が、
「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人である」と言った。

政治家には、行政の予算を動かす力があり、企業やいろいろな団体に対して顔が効く。
だから、任期中は「先生、先生」と門前市をなすくらい人が集まる。
しかし、4年間の任期が終わり、次の選挙戦に勝てなかったら、ただの人である。
今まで、良いことを言ってくれた人は、掌を返したように離散する。

これも聞いた話。
役所で局長まで出世した人がいたそうである。朝は、黒塗りの公用車が玄関まで迎えに来て登庁する。
役所では、上にも下にも置かぬ扱いを受け、夜は接待の場を設けられる。
そして、また帰りも公用車で自宅まで送り届けて貰える。
そんな生活を送っている人が退職をした。
そうしたら、ただの人である。
その辺にいて、家で奥さんに邪魔者扱いされている親父さんと何ら変わりがない。
「俺は昔局長だったんだ。」と気張ってみても、誰もそんなただの人の昔話には興味がない。
そのため現役時代とのギャップに、すっかり気落ちしてしまったと聞く。

前は、功成り名を遂げた人は、それに相応しい人格者だと思っていた。
自分とは、全く別の人種だとすら思えた。
もちろん、優れた人はいると思う。
だが、地位や権力は、神輿のようなもので、担ぐ人間がいてこそ価値がある。周りが担ぐことを止めたら、その神輿自体に何の価値もない。
要は、我々と同じ人間が、一時期、成功者や権力者と言う役回りを演じて、その任が解かれただけなのだと分かる。

■ホトトギス

勝海舟が言った。
『時鳥 不如帰 遂に蜀魂』
ほととどぎす、ほととぎす、ついにほとどぎす、人生のすべてかくのごとしさ・・・。

ホトトギスと言う鳥は、いろいろな漢字を当てて書かれる。
まず、「時鳥」。
人間で言えば、時流に乗って上り調子の時。
門前市を為す賑わいと言うが、訪問客がいつも途切れずやって来る。
成功者には、みなあやかりたいからだ。
おこぼれにでも預かりたいと思うから、なるべく縁を持とうとする。

次が、「不如帰」。
しかし、一旦勢いが衰えると、今まで取り巻いていた人たちは離散する。
だんだん寂しくなって、手元も不如意にはなる。
そして、こんなことなら、故郷には帰ろうか、とボヤく。だから、「不如帰」(帰るに如かず)である。

最後が、「蜀魂」。
退位した蜀の皇帝が、身の寂しさを嘆いて、一人寂しく死んで行った。
その嘆きの声がホトトギスの鳴き声に似ているので、この字を書く。
一時は良い目を見ても、最後は養老院に押し込められて、一人不遇を囲って死んでいくのだ。

江戸末期、一人で幕府を切り盛りした勝海舟にして、そう言わしめる。
まるで、人生はバッドエンドで終わる、ロールプレイングゲームのようである。

■生きている人の目線

そして、忘れてはならないのが、人生を終えた後のこと。
なぜなら、必ず、私たちも行く道だからだ。
「やっと苦しみから解放されました。」
「死は、救済なのです。」
「きっと天国で幸せになっていると思います。」

本当か?
もちろん、自分もそれを願う。
しかし、これはみんな、生きている自分たちの都合なのだ。

自分たちが、そうであって欲しいと言う願いでしかない。
しかし、その願いなり、思いは、生きている自分たちの大切な糧である。
一つには、大切な家族だから、幸せであって欲しい。
もう、一つには、自分たちも間違いなく向かっている世界だから、明るい世界であって欲しい。安心できる。

ただ、その思いは、やはり生きている人間の目線である。
どんなに科学が進歩しても、生と死の一線を越えて、その向こうを窺い知ることはできない。
だから、想像するしかない。
これは、仕方のないことである。
死者のリアルは知りようがない。

しかし、死者が口をきいたらどう言うか。
生者の目線でしか語らない、自分たちの都合でしか考えられない。
やはり、我々の思いは、自分たちの目が届く範囲に限定される。
旅立つ人の目線では考えようがない。
生者の世界ばかりに固執している我々を冷淡に感じないだろうか。
蜀の王様の嘆きの声が聞こえるようである。

いずれにせよ、退場者には冷淡な社会に僕らは生きている。
神輿を求める人生も良いが、「蜀魂」とならぬ生き方とは、どんな生き方だろう。