今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

親の死に目にきちんと泣ける

(写真:パープルタウン)

■うちのツマの偉いところ

非常に悲しいことだが、家内の母親が今年の1月に亡くなった。
享年72歳。
しかも、まったく年齢を感じさせない若々しい人だったから、よもやこんなに早く別れが来るとは、想像もしていなかった。

家内は娘だし、病院も自宅の近くだったから、毎日通って、何くれとなく世話をしていた。
余命宣告された終末ホスピスの患者だった母親の、残された日々を心安く過ごせるようによく尽くしていたと思う。

土日は、自分もよく顔を出していたし、平日も様子を聞かされていた。
だんだん細る食事に、もう余り長く無いだろうとも聞いていたた。
そして、余命3カ月と宣告されてから、半年後、ついに母親は危篤状態に陥った。
自分が病院に着いた時、「お母さん、怖い」と怯える娘と、看護士さんの「お母さんが亡くなられ、娘さんが付き添って泣いておられます」の言葉に、母親の臨終を知った。
付き添って泣いていたのはうちの家内で、繰り返し「お母さん、お母さん」と号泣する姿に、うちの娘が怯えていたのだ。

しかし、余命いくばくもなく、死は覚悟していたはずだ。それを分かって半年間付き添ってきたら、実際事切れた時は、半分諦めが先に出るだろうと思う。
しかし、号泣する家内を見ながら、他から思う以上に結びつきが強い親子だったと知らされる。
そして、親の死に目にキチンと泣ける我が妻を、とても立派だと思う。

■親は子のために泣き、子は親のために泣かぬ

子供が亡くなって、半狂乱になって泣かない親はいないだろう。
死なないまでも、大きな怪我をしただけで、親の心は恩愛の情で狂乱する。
それくらい、自分の血肉を分けた子供は命なのだ。

しかし、反対に子供の、親に対する思いはどうだろうか。
確かに、まだ成人前の子供が親を失えば、支えを失った寂しさで嘆き悲しむだろう。
それは、親がこの世で一番の頼りだからである。
しかし、就職し、結婚し、子供ができれば、親以上に、自分の人生の支えが生まれる。
それは、仕事であり、夫であり、妻であり、子供である。
そして、自分の中で、親の存在はどんどん小さくなっていく。
ましてや、長命を保ち、と言えば聞こえは良いが、要は老いさらばえて死んでゆく親に対して、子供は冷淡である。

大往生なんて言い方でいい紛らわせて、「長生きされて良かった」と、自分の親の葬式に笑顔まで見せる始末。
まったく、親は子のために泣き、子は親のために泣かぬ。
果たして、どちらから多くの恩を受けているのか分かっているのか。

■人間の価値

「恩」と言う字は、因を知る心と書く。
因とは、今自分がこうして幸せに暮らせている原因は何か、と言うこと。
それは、多くの有情、非情(心のある者と、ない者)のおかげである。
それを知り、そのおかげに感謝する心を「恩」と言う。

古来、「人間にとって、一番情け無いことは『恩知らず』と言われることだ」と教えられる。
その恩の中でも、一番重いのは、言わずと知れた親から受けた恩だろう。
しかし、その実、恩を仇で返すようなことばかりしていないか。
あるいは、身体に表さなくても、心の中でどんどん親が軽くなっていないか。
だから、都合が悪くなると、雑に扱っていないか。
まさに、情けない『恩知らず』の実態が反省される。
想像してみる。
自分の子供が、将来、自分が親にしてきたことを、そのまま自分に対して行うとしたら、耐え切れるか。
いや、笑い飛ばすまい。
蒔いた種は必ず生えるのだから。

だから、自分が幸せになるには、親に対して恩知らずであってはならない。
その一つのバロメーターとして、自分は親の死に目にキチンと泣けるか、問いかけてみるのだ。