今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

自分の功と、他人の罪

(写真:大滝渓谷 その4)

《慢》

108ある煩悩の中で、もっとも厄介で、最後まで修行者を苦しめると言われるのが、「慢」の心。
慢は、7つあると言われるが、そのうち分かりやすいもの3つ。

「慢」・・・自分より下のものに自惚れる。
自分より下のものなら、問題なさそうだが、僅差しかなくても必要以上に見下げ果てる。
少しだけ自分より能力が劣っているだけで、すっかり親分気分。
昔、あのカルト教団の首謀者は、少し視力が劣ると言う理由で障害児のための学校に通っていた。すると、割と軽度な自分に比べ、周りは重度の子供ばかり。それで、すっかりそこの親分に収まりかえり、人を支配することを覚えた。
その後、どうなったかは周知の通り。

「過慢」・・・自分と同程度のものに自惚れる。
友達としてつるんでいたり、同じフロアで机を並べで働いていても、心の中では、何故か「俺の方が上」と思っている。
だから、相手に急に可愛い彼女ができたり、あるいは、自分より先に出世すると大きな衝撃を受ける。
「ああ、友達の、同僚の幸せを素直に喜べないなんて、俺は小さいな」
心配ご無用。皆んなそんな心を持ちながら見せないようにしているだけだから。
うまく隠せたら、人格者と言われる。

「慢過慢」・・・自分より明らかに上のものに自惚れる。
「あれじゃダメだよね。」
「なってないよ。」
「完全に失策だよ。」
政治家や、野球の監督、果ては上司にまでもの申す。(ただし、聞こえないところで)
あれは、気持ちが完全に上に行ってなければやれない。
じゃあ、お前やって見ろよ!
「えっ、オ、オレは・・・。」
どこかの国の無責任な野党みたい。

《所詮は自分の都合》

何故、こんな実態に合わない思いを心の中で培養しているか。
それは、常に自分が一番偉いと思っていたい自己都合による。
自分の本質は自惚れ。
自惚れていられるポジションを守る為ならなんでもする。

中には、耳を疑うようなこともある。
自分で、他の土地の出土品を埋めておいて、「こんなん出ましたよ!」とわざとらしいパフォーマンスをした遺跡発掘団長がいた。
「そんなの普通おかしいだろう」と今なら思えるが、当時は考古学界もマスコミも真面目に「神の手」と奉っていた。本人も後に引けなくなっちゃったのか、だんだんその気になったのか、破綻に向けてブレーキがかからなかった。
「偉いね、立派だね。」
そんなかりそめの虚栄心を満たす為の代償はあまりに重い。

可愛いのは、口を開けば、自分の成果は大げさに言い、人の失敗は誇張する。
自分の口から出る言葉に耳を澄ませてみよう。無意識にそんなこと言っていないか?
それも、火の元の心でそんな思いを培養しているのが原因。
悪培養である。

《身近な人を尊敬できる幸せ》

自分が自惚れていられるためには二つ手段がある。
一つは、自分自身頑張って、他の追随を許さないまで、結果を出すこと。
二つには、他人のアラを探して、自分と引き当てることにより安心すること。
しかも、自分はどうしても二番目に流されやすい。

気がつけば人がダメな理由を懸命に探している実態に愕然とする。
そんなことばかりしているものだから、皆んながちゃんと頑張って結果を出した時にショックで寝込むハメになる。
自業自得である。

前から、よく自分に言い聞かせていること。それだけ抜けがちだと言うことでもある。
それは、「どんな立場の相手でも尊敬の気持ちを失ってはならない」と言うこと。

お金を全く持たない相手でも、身を捨てて慈善活動をしているかも知れない。
仕事は全くダメでも、優れた人間性で凄い人脈を持っているかも知れない。
職場の職位は下でも、実は物凄く自分を支えてくれているとか。

特定の自分に都合の良い分野で勝っていても、それで自分はその人より上だとは言えない。
そして、尊敬して接して初めて見える人の凄さもある。逆に、後で本当の価値を知らされて、今までのぞんざいな扱いを深く反省させられることに頻り。

だから、身近な人を尊敬して接することができる人は幸せ。
学びも多くなるし、成長もできる。
そして、かりそめの虚栄心に騙されず本分に邁進できる。

「愚者は何者からも学ばず、賢者は何者からも学ぶ。」