今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

叱り甲斐のある人間になる

(写真:夕空 その3)

《叱る名人、松下幸之助》

松下幸之助は、叱ることの名人と言われている。
松下さんに叱られた人は、後年自慢げにそれを語ったり、書いたりしているほどである。

松下幸之助氏の人を叱る時のモットー、それは「策をもって叱るな。」
叱る時は、とにかく相手の心得違いを正さないとたいへんなことになるから、真剣にやる。命がけでやる。
こう言ったらこうなるだろうとか、後先や細かいことは考えていられない。

もう、命がけで叱られたら、あまりのモーレツさに聞く方は頭は真っ白。
最後「申し訳ありませんでした」と言うのが精一杯。
しかし、大切なのは叱られた後だそうだ。

人からは「叱る方は気が楽ですね」と言われるけど、松下さんの思いは逆。
あの叱り方で良かったのだろうか、ちゃんと届いただろうかと、4〜5日は悩む。時には、眠れなくなるくらい。

もっと言えば、松下さんにとって叱ることは刀を抜くことで、いつもその収め方に苦しむんだとか。
そこへ、叱られた後すぐに「申し訳ありませんでした。ご指導肝に銘じます。」と言ってきて貰えると、「ちゃんと届いたんだな」とホッとするそうである。

やはり、叱る人も人物ならば、叱られる人も人物。
反省頻り。

《叱り下手、叱られ下手》

叱るという行為はなかなか出来難いと思う。
反面、怒るという行為はよくやる。
怒るは自分の利害中心、叱るは相手のためを思ってすることである。
しかし、相手のためと思っても、そこは聞きたくないこと、言われたくないことを言わなければならない。
だから、恨みの感情も残るだろうし、自分自身を振り返ってもロクな叱られ方をしてこなかった。

「皆んな、これはお前のためを思って言うんだぞ。」
そう何遍言われたか。
ならば、そんな気持ちに感じいって、涙の一つも流せばまともなのに、「しら〜っ」と冷めた気持ちで聞いている。
そんな自分だから、ついには誰も注意してくれなくなって、しかも「やっと人に言われなくなった。俺も随分偉くなったものだ。」と勝手に勘違いしているんだから、「縁なき衆生は度し難し」とはまさに自分のこと。

そんな自分にも、しっぺ返しはやってくる。
それは今度は自分が人を叱る時に、かつての自分が重なるから怖くてまともに𠮟れやしない。自業自得である。

《叱り甲斐のある人になる》

最近、人と喧嘩した。
喧嘩したと言うより、自分の身から出た錆で悲しませた。
申し訳ないと思いながら、後から思い返してみると、その場は言い訳に終始していた。
でも、考えれば考えるほど、悪いのは自分。だから、きちんと謝ろうと思った。
そこで、少し時間をおいてきちんと謝罪した。ただ、それで許して貰えるかどうかはもう少し時間がかかるかな。

叱られた時も、対等な立場で喧嘩した時も、要は相手の気持ちをきちんと受け取れたかどうかが大切だと思う。
そのためには、少し自分の中で相手の言葉を反芻する時間が必要。
その場ですぐ謝るのはしらじらしい。
まず、自分の中で受け止めて、申し訳なかったところを腹に落とす。
それから、きちんと謝まれば、叱り甲斐のある人間になれる。

だから、叱られた後の最後の言葉は『有難う』。
相手も抜いた刀を鞘に収めて、やれやれと安心できる。
そんな人になりたい。