今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

天佑は常に道を正して待つべし

(写真:モンシロチョウ)

《花王創業者の言葉》

『人は幸運ならざれば非常の立身は至難と知るべし。
運はすなわち天佑なり、
天佑は常に道を正して待つべし。』
(花王創業者「長瀬富郎」の遺訓)

花王の創業者なので、非常なる立身とは自身のことを言っているのでしょう。

人生は、行く先定めぬ列車の旅と言った人がいます。
人間に生を受け、気がついて見れば、もう列車は発車して、かなり走り出しています。しかも、その行く先がどこかも告げられていません。
ただ、分かっていることは、その旅がいずれ終わると言うことと、自分の努力次第で多少なりとも列車の行く先を変えられると言うこと。
だから、私たちは立身出世を一つの幸せの終着駅と見なして、そこを目指して頑張っています。

ただ、勉強もし、努力もしているのに、非常な立身出世を遂げる人は稀です。
企業家であれば、事業規模2〜3億の壁を越えるのはなかなか難しいと言われます。
昔のことですが、漫画家人口は10万人と言われていました。その内、有名漫画誌で長期連載を続けている人は、何パーセントでしょう。
相撲の世界でも、大関、横綱と言われる人は、ほんの一握りにもなりません。

その中、花王創業者氏は、自分の人生を振り返って、「自分が立身出世できたのは、自分の力だけではない。それは、自分の力を超えたたいへんな幸運にめぐまれたからだ」と述懐しています。

では、その幸運とは何か?
「運はすなわち天佑なり」とあるように、幸運とは、人智を超えた天の力のようなものの作用だと言っているのです。
《天佑とは何か?》

では、その天佑とは何か?
キリスト教徒ならエフォバの神の力、イスラム教徒ならアラーの思し召しと言うところでしょうが、この場合の「天」は、そのような具体的に人格化された超越者を指している訳ではありません。

もともと「天」とは古代中国の概念です。
中国の皇帝を「天子」と言うのは、天により認められて統治者を任ぜられている立場だからです。ですから、天子が天の意思に背いて非道な政治を行えば、これを家臣が力で排除しても不忠ではなく、むしろ天の意思に叶った正しい行為だと見なされました。

中国では、天帝を信仰し、天を神格化していますが、ここで言う「天」はそれとも違います。
天とは、人間の目に見えない法則、働きと言った方がしっくり来ますし、もっと言えば、日本人なら因果律が身に染み付いています。
つまり、自業自得と言われる通り、良い運命も、悪い運命も全て源流を辿れば、自分の蒔いた種と言う考え方が、私たち日本人の行動のもとにあります。
そのような目に見えない法則を、「天」と言う言葉で置き換えていると思うのですが、いかがでしょうか。

《天は天ならず、運は運ならず》

ならば、「天」は自分以外の超越者ではなく、「運」は自分以外の何かの働きでもないことになります。
つまるところ「情けは人の為ならず」で、自分の種まきが、巡り巡って善果として作用したと言うことです。

ですから、「天佑(善果)は、常に身を正しくして待つべし」の言葉は、善果は、自分の種まきの結果だから、ひたすら親切、忍耐、努力、反省等の良い行いを心掛けて待つべしと理解すれば、すっきりします。

しかし、あの時、エレベーターに乗らなかったら、そして、あの人と会話しなければ、いつもはそのまま帰るのに、その時に限り食事に付き合わなければ・・・こんな大きな商売の話を貰えなかった、と言うことはあります。
本当に一つでも歯車が狂っていたら、今の成功はなかった訳です。その不思議さを知らされるほど、出会いとは不思議だなあと言う思いが強くなります。
まさに「幸運」であったり、「天佑」と表現したくなるのも理解できます。

しかし、こうも言えます。
それは、今までの良い行いが満期になって、銀行から下ろせたようなもの。結果がでていない内は、まだ満期になっていないのです。
それを無理に占いや祈祷に頼って満期を早めようとしても詮無いこと。
そこは、「天佑は、常に身を正しくして待つべし」の通り、ますます善い種まきに心がけ、満期を楽しみに待つ心掛けが大切なのでしょう。
さすがに、大経営者の言葉は深いですね。