今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

ゴー・グローバル

(写真:夏雲 その1)

《近い世界と遠い世界》

世界は近くなったと言われます。
確かに、身の回りには外国の人が溢れ、ごく普通に母国語で会話しています。
知り合い曰く、ある日出社したら、目の前の席に「ウィリアムさん」が座っていて、「ハイ・アイアム・ウィリアム・ナイス・トゥ・ミーチュー」と普通に話しかけてきたそうです。

私は未だに慣れませんが、若い人たちは、スカイプを通じて普通に海外とリアルでやり取りしています。
Facebookにしても、いろんな国籍の友人がどんどん増え、書いてあることは分からなくても、投稿されている写真だけを見て、普通に「いいね!」コミュニケーションが成立しています。

国も、習慣も、言語も、気候も、空の色もまるで違うもの同士がネットの力を借りて、普通にコミュニケーションできているのは凄いことです。また、実際この目で顔を見て会話したくなっても、海外まで渡航する気安さは昔日の比ではありません。
その意味で、世界はとても近くて身近になりました。

しかし、国外のことが普通に話題にのぼる日常にあって、それでも海外に対してはまだ心の壁があります。
それは、まず言葉の壁、習慣や価値観の違い、国境を越える煩わしさや、生活基盤から離れることの不安等の壁です。
ネットの世界では近い海外も、リアルではまだまだ遠い世界のようです。

《日本と言う心地よい閉塞感》

少子高齢化、労働人口不足、構造改革に失敗して没落する産業界、とかく周りからは日本の閉塞感ばかりが聞こえてきます。
「日本にしがみつくのはヤバイ!」
だから、可能性を求めて、広い世界に飛び出そう。

また、これから縮小する一方の日本の市場に閉塞感を覚え、海外の広い市場に挑戦を試みる企業が続々と現れています。
現に、私の上司も海外での商売の可能性を求めて、頻繁に渡航を繰り返しています。
ですが、その上司が時々ボヤいています。
「昔は仕事で海外に行かせて貰えると言えば、皆んな目を輝かせたもんだけど、最近の若い人は違うんだよな。
なぜなら、日本ほど居心地が良くて、なんでも揃っている国はないだろ?
皆んなにとって海外とは、不便な思いをしてまで、チャレンジをする所ではないんだろうな。」

確かに、日本という国の閉塞感は誰でも感じていますし、将来にたいへんな不安も感じています。
だからといって、海外へ行って活路を開こうとまでのモチベーションにはならないようです。
モチベーションと言えば、以前は海外で華々しく活躍している日本人の報道がよくなされ、それを見ては、「ようしオレも」と士気を高めたものです。
ところが、企業が普通に海外進出をするようになり、現地での日本人の苦労が聞こえてくるようになると、こんな快適な生活を捨ててまで挑戦する価値はあるのかと、今までのモチベーションもしぼみがちです。

確かに、身の回りの海外で活躍している人のモチベーションは、ちょっと我々一般人より飛び抜けていますね。

《それでも何故世界を目指すのか》

しかし、私個人としては、今ある諸々の制約がなくなれば、活躍の舞台として海外にはたいへんな魅力を感じています。

おそらく、それは肩書きも、看板も海外では、一切通用しないのと、同時に関係もなくなるからです。
実際、一小企業の一担当者がその国の政府関係者と普通に会話できたり、日本ならとても対等に付き合えない大手企業と普通に付き合えたりする事例を聞きます。

苦労すると言いますが、それは皆んな普通に行って普通に失敗しているということです。
そして、日本のように、うまく行くのが当たり前で、失敗するとたちまち落伍者の烙印を押される文化でもありません。挑戦を評価し、失敗に対して寛容な文化であるとも聞きます。

海外の魅力は、金銭的な成功や、生活の快適さよりも、そんな自由な挑戦を許してくれる空気にあるのかも知れません。
だから、私もいつか事情が許せば、海外の大舞台を踏んでみたいと願います。