今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

最高の生き方とは

(写真:初夏の燈籠)

《怖いものは何にもないと言える人》

私の知り合いのご婦人が70代の頃、「この年になれば、もう怖いものは何もない」とカカと笑っていました。
その頃私は30前。正直、(へえ、凄いなあ)と思いました。
それから、20年近く経ちますが、そのご婦人は未だに意気軒昂、矍鑠としています。

対して、私は怖いものだらけです。
中でも怖いのは人間で、一生懸命機嫌を伺ったり、気を使ったりして生きています。
かの水木しげる氏も、自身の戦争体験記の中で、一番怖かったのは、敵の銃弾でも、厳しいしごきでもない、上官のビンタだったと、振り返っています。

ですから、人間社会で最大の苦しみは人間関係だとまで言われます。
こちらを立てれば、あちらが立たず、あちらを立てれば、こちらが立たずで、自分も相手も互いに気の休まる時がありません。
人に頭を下げたくないからと、例え極道の道に入っても、結局厳しい上下関係で気を使わなければなりません。

日本人のトップに立って、今ややりたい放題と叩かれるあの人も、その実気苦労は絶えないでしょうね。
安保法案を強行に通そうとしている反動なのか、国立競技場の見直しのような小技で国民の機嫌を取り結ぼうと懸命です。
そう言えば、戦国時代を平定して、実質的に日本の頂点に立った徳川家康にして「人の一生は重荷背負うて遠き道を行くが如し」と言っているのは、権力の頂点に立っても、この苦しみから逃れられない証拠でしょう。

なのに、そんな人間関係から全く解き放たれたようなご夫人の発言、どうしてこんなことが言えるのでしょうか。

《間違わない人》

このご婦人、こんなことも言われます。
「私は何にも間違ったことをしないから、怖いことがないんだよ。」

そんな、仏様じゃあるまいし、人間に「何も間違わない」なんてことができるのでしょうか。
そもそも、人間の間違っている、間違っていないは、主観的なもので、自分は正しいことを言っているつもりでも、相手がそう受け取る訳ではありません。
そして、このご婦人の基準は、自分にとっての間違っていないなのでしょうか?それとも、他人にとっての間違っていないなのでしょうか?

思うに、このご婦人の場合は、自分を基準にしているのでしょうね。
私たちは、自分が納得できなくても、周りに同調して節を曲げることが多くあります。
「それは明らかに間違っている」と思っても、それが目上の人だったり、力の強い人だったり、あるいは相手の数が多ければ、その思いを飲み込んでしまいます。それは、そうしないと自分を守れないからであり、仲間を守れないからであり、家族を守れないからです。
しかし、第一線から退いて、多少周りと揉めても左程影響がない立場ならば、自分の気持ちを押し通しても良いのでしょう。そこに加えて、辛い時代を生き抜いて腹も据わっています。
確かに、この年齢の方には、言いたいことをズバリと言われる方がいるのは確かです。

しかし、自分の言いたいことを言っているだけでは、「間違ったことをしない」にはなりません。
自分の心のまま自由に何でも口にできれば痛快でしょうが、それで人が迷惑したり、傷ついたりしたら後味がよくありません。
たまに、自分の中で違うかなと思っても我を通す人がいますが、結局自分に嘘をつく人間は、いつもその負い目を腫れ物のように心で増殖させていきます。そして、いつその腫れ物に触られるかと戦々恐々とした生き方になるでしょう。
それでは、とても「何も怖いものがない」からは程遠いでしょうね。

《堂々たる人生》

と言うことは、このご婦人は自分の道徳的良心に従って、決して間違ったことをしないような生き方を貫いている訳です。
少なくとも、自分には嘘をついていないので、負い目で苦しむことはありません。

しかし、他人に対してはどうでしょうか。
いくら正しいことを言っても、その人の都合に合わなければ、結局ぶつからねばなりません。
当然、揉めるでしょう。
ならば、そんな諍いや争いは怖くないのでしょうか?

昔見た映画にもの凄いナイスガイが出て来ました。仲間からも慕われ、女性にもモテる。
しかし、彼は裏社会に身を置く人間でした。
ある時、彼は自分の舎弟分から身辺に注意するように言われます。どうやら、敵対するチームの動きが不穏らしいのです。
そこで、彼は相手の幹部に丸く収めてくれるよう申し入れる役を買って出ます。当然、周りは彼に、「言って分かる連中じゃないから危険すぎる」と止めます。
しかし、彼は舎弟分にニッコリ笑ってこう告げるのです。
「なあに、何もビクビクする必要はねえ。もし、こっちが間違っていたら謝りゃいい。もし、こっちが正しけりゃ、そう言って堂々としてりゃいいんだ。」

全く堂々としたものです。
裏社会にいるのに言っていることは至極まっとうです。さすが、ナイスガイ。

確かに私たちは、間違っていても頭を下げられなくて我を押し通しています。
正しいことをしていても、謗られるのが嫌で節を曲げています。
こんな生き方をしていれば、怖いものばかりになるのは当たり前です。

間違っていたら、すぐに頭を下げる。正しければ、どんなに謗られようと、相手が間違いに気づいて謝ってくるまで、堂々としてれば良い。
結局、良きにつけ悪しきにつけ、自分の蒔いたものは自分にしか返らないのです。
そして、こんな生き方ができれば最高だし、怖いものはなくなります。
私は、こんなナイスガイに共通するものを、知り合いの老婦人に感じて、またつくづくと感心してしまうのです。