今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

どつきあい

(写真:ダンス ウィズ クマバチ)

《ある時禅僧一休が》

ある時禅僧一休が、檀家である大家に、法事の打ち合わせで立ち寄りました。

一休さんは、門の前に傲然と構えている門番に向かって、「これ、これ、ご主人は御在宅かな。話したいことがあるので取り次いでもらえぬか。」と話しかけます。
見れば、みすぼらしいなりの乞食坊主。さては、物乞いにでも来たのかと思い、「うちのご主人様がお前のようなものに会われる筈があるか。帰れ、帰れ。」と追い返そうとします。
対して一休さん、「用事があるから来たのだ。お前は門番だから、主人に取次さえすれば良い。」ときり返したところ、門番はすっかり腹を立てて、いきなり一休さんをポカポカッと殴りつけると追い返してしまいました。

やがて、法事の当日。一休さんは、またあの檀家に、今度は袈裟と衣の立派な出で立ちでやってきました。
門の前では、家の主人と家人がうやうやしく出迎えてます。そして、あの乱暴な門番も神妙に頭を下げていました。

座敷に通された一休さん、主人に向かってニヤリとして「この間はえらく馳走になってのう。」と言います。
「えっ、この間おこしになったのですか?」
そこで「実はのお」と、この間の門番との一件を告げます。
「それは、たいへん失礼しました。」冷や汗をかいて謝った主人でしたが、「しかし、そうなら一休様と名乗ってくだされば良いではないですか。」
「無理もない。あの時はみすぼらしい格好をしておったからのう。しかし、わしの中身は何も変わってはおらぬのに、今日は袈裟と衣を着てきただけでこの歓待ぶり。してみれば、わしには何の価値もないことになる。ならば、この立派な袈裟と衣に経を読んで貰えば良かろう。」
そう言って、一休さんは、袈裟と衣を脱ぎ捨てて、その場に置くや、さっさと帰ってしまったと言います。

《真剣だからしょうがないじゃないか》

人は見かけで判断してはならないと言う教訓であります。
それにしても、一休さん、イタズラが過ぎますね。わざと乞食坊主の格好をして、叩き出されるような種を自分で蒔いておきながら、それで主人に文句を言うのですから。
あとで散々主人に叱られたであろう門番のことを思えば気の毒です。

しかし、普通相手が大家で寄進も多い檀家ならば、こんな波風の立つことはしないものです。わざわざ芝居じみたことまでして、一休さんが伝えたかったことは何でしょうか。

仏法は、「その人尊からずして、その法尊し」と言われ、どんなにみすぼらしい人が説いても、その教えが真実ならば、頭を下げて聞かねばならないと教えられます。ところが悲しいかな、俗っぽい私たちは、説く人の格式や身なりによって聞く姿勢が変わるのです。おそらく、一休さんはその心得違いを正したいと思ったのでしょうね。彼の僧職としての真剣さの表れです。

真剣にやっているからこそ、口が出る、手が出る。特に、真剣なもの同士だと、どつきあいが始まります。
なあなあ、で許しておけるのは、所詮その程度の思いで、真剣なら相手が上司だろうが、お客さんだろうが関係ありません。

争いはしたくないし、仲良くやりたいのはやまやまでも、真剣にしたことは、やはり真剣に評価してもらいたいのです。
一生懸命作った料理に対して、旦那さんが気の無い返事を返していると、だんだん奥さんの機嫌が悪くなります。それは、奥さんが喜んで貰いたいと真剣だった証拠です。
私も、一生懸命仕上げたものをロクに見ものせずに、批評だけする人間がいたら腹が立ちます。そんな対応をするより、ダメ出しでも良いから真剣にしろ、と怒りたくなります。

《クオリティはプライドに現れる》

真剣に取り組んだものには、誰しも深い思いいれがあります。
受け入れて貰えば嬉しさは100倍、否定されたら悔しさも100倍。ですから、クオリティの高さは、製作者の自負となって表れます。

時に、自分の作ったものに思いいれが強い人を自画自賛、ナルシストと揶揄することがありますが、そう言われても、強い思い入れが出るのは仕方ありません。なぜなら、真剣なんですから。

ダメだしを喰らって、ああそうですか、とアッサリ引き下がるのは、その程度の思いの証拠。たとえ強がって、気にしないふりをしても、腹底は悔しくて、何度も改良を加えてはまた立ち上がってくるのです。
作る方も真剣ならば、ダメだしをする方も真剣、そこではどつきあいが始まります。

そんな、目上の人とどつきあえないよ。
しかし、心配無用。お互い真剣なもの同士、同じ目的を共有しているのですから、そこを突き抜けたら、きっと絆が深まっていますよ。