今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

墨俣戦記

(写真:山と鯉と風と)

織田信長が美濃への侵攻を狙って、美濃城主の斎藤氏と合戦を繰り返していた頃のこと。

長良川西岸の洲俣(墨俣)は交通・戦略上の要所として、しばしば合戦の舞台となっていました。
「墨俣に築城をせよ」
信長の命を受けて、佐久間長盛、柴田勝家ら古株の武将が築城を試みます。しかし、そうはさせじと押し寄せる美濃勢に阻まれて、城造りはかないませんでした。

業を煮やした信長に、当時木下藤吉郎と名乗っていた後の豊臣秀吉が「七日のうちに城を築いて見せまする」と豪語しました。
今で言うところの爆弾発言です。
それを聞いて、佐久間長盛や柴田勝家など、先に築城を試みた武将はさぞや腹に据えかねたと同時に、腹の中でせせら笑ったでしょう。
(なんの草履取りめが、わしらがこれだけ試みて出来ぬことが、わずか七日でできるだとお。お屋形様にそんな大ぼらを吹いて、もしできなんだら、申し上げてきっと成敗していただくからなあ。)

ところが、藤吉郎には策がありました。
(別に天守を備えた城を建てるのでない。まずは、簡易でも戦略上拠点となる城を築けば良いのじゃ。
ならば、やりようはいくらでもある。)

まず、藤吉郎は城の資材を調達し、それを墨俣の上流に運び込みました。
その上で、藤吉郎たちは墨俣に軍を進め、築城予定地の確保を試みます。
彼も、当初先輩二武将のように、攻めては引き、引いては攻めてと一進一退を繰り返していましたが、やがて、おりからの豪雨で河が増水したため、両軍は軍を引き戦闘を中断しました。そして、藤吉郎はこの時を待っていたのです。

実は、上流に運び込んだ資材は、そこで組み立てが行われ、バラバラに分解した城の体をなしていたのです。
そして、工作隊は、その城の部品を河の増水に乗じて川下の墨俣に流しました。
かねての手はず通り、墨俣に潜んでいた伏兵が川上から流れてきたパーツを受け取り、豪雨と夜陰に紛れて城を組み立てました。

やがて、白々と夜が明け、突如出現した一夜城に美濃方は肝を潰します。
かくして、言葉通り墨俣に城を築いた藤吉郎は信長から大いに評価され、織田方は美濃攻めの有力な拠点を手に入れたのです。

以上、テレビドラマや、伝承を適当にアレンジしました。事実とは、大きく異なっているかも知れませんが、その点はご容赦願います。
今洲俣(墨俣)に行くと、立派な天守閣を備えた城が建っています。しかし、当時藤吉郎が造った城は、柵や馬出し、逆茂木を備えた簡易な砦のようなものでした。もちろん住むのには向きませんが、戦略的拠点としての機能は充分備えていました。

藤吉郎がここで考えたのは、そもそもお屋形様(信長)が城を墨俣に築く目的は何か?と言うことです。
別に住む為でも、長期滞在する為でもない、戦略的に多勢の兵を駐留させ、出撃をしたり、敵を防いだり、兵站を備蓄したりできれば良い訳です。
しっかりとした城を築こうとしたら、それなりに人数も期間も必要です。そして、その作業中を攻められたら、人的、物的にたいへんな損害が発生します。
ならば、最低限の機能を持つ簡易な城を最短で作れば良いのです。これが、藤吉郎の発想の原点であったことは想像に難くありません。

私たちITのものから言えば、木下藤吉郎は、アジャイルの先駆者であったと言えます。
アジャイルとは、最短で、その段階で必要とされる最低限のものを作りあげて評価をしてもらう開発手法です。
キッチリ図面を引いて、見栄えも整えて、最初からしっかりしたものを提供しなければ恥ずかしい、と思うのはプロの常です。
しかし、何事も相手のあることですから、全てこちらの想定通りに受け入れられることは希です。結局、費用をかけてやり直すか、相手の要求を突っぱねるか、どちらかが傷つかずには終わりません。

しかし、見栄や、慣習、見栄えにこだわらずに、やり直し前提、あるいは最低限必要を前提にすれば、この問題に光が見えます。
藤吉郎の発想は、今一番大切なことを土台に組み立てられています。また、今大切なのは、質なのか、スピードなのか、その見極めとも言えます。
墨俣一夜城は、私たちにも大きな学びがあるエピソードです。