今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

三人市虎を成す


(写真:菜の花は黄金色)

『三人市虎を成す』とは、中国の故事です。

魏の国の太子と、その側近が他国へ送られることになりました。

その側近は、魏王に目通りを願い、以下の話を伝えました。

「王様、もし市場に虎が出たと言うものがいたら、お信じになりますか?」
「そのような場所に虎が出たと言われても信じる筈がない。」
「では、もし三人までが、市場に虎が出たと言ったらどうですか?」
「確かに、三人が言うのなら信じるかも知れぬ。」
「そうでありましょう。三人まで同じことを言えば、どんなに信じ難いことでも、つい信じてしまうものです。
他国に送られた後に、私のことをいろいろと讒言する家臣がおりましょう。おそらく聡明な王様のこと、最初は笑って取り合われないと思います。しかし、そういうものが二人になり、三人になった時に、王様が彼らの讒言を信じてしまわれるのでないかと案じられます。どうか、そのような言葉に惑わされることのないよう、直接見聞きされたことだけを信じていただくようお願いします。」
「相分かった。案ずるに及ばぬ。」

そうして、側近が他国へ旅立った後、果たして魏王の周りの家臣たちは、先の側近のことであることないことを吹き込み始めました。側近の言葉が頭にあった魏王は、最初は全く取りあいませんでしたが、周りから言われ続けているうちに「ひょっとして」と言う心が起きて来ました。そして、その心はだんだん大きくなって、ついには家臣たちの言葉を信じるようになってしまったのです。
やがて、太子は魏の国に帰国が叶いましたが、王に疑われた側近はついに帰ることができなかったといいます。

今、私たちは、いろんなメディアに囲まれて生きています。テレビ、ラジオ、新聞、ニュースサイト、ブログ、SNS等々、中には本当に「市場に虎がでた」と言いそうなものもあります。
この間、どこかの地震学者が「4月12日に巨大地震が来る」と予測した所為で、相当肝を冷やした人もいたでしょう。地震学者の言うことを、やはり何処かの誰かがまことしやかにブログにまとめ、それがネットで拡散した結果、多くの人間の知るところとなったのです。
ただ、最近この手のネタが多いため、下手に騒ぐと恥をかくからと、お互い牽制して、あまり公の場で議論されることはありませんでした。もし、そんな歯止めがなければ、パニックに発展していたかも知れません。

まだ、これは軽微で済んだ例ですが、30年以上前に流行った「ノストラダムスの大予言」で人類が1999年に滅亡すると言う話は、結構な社会問題になりました。なにしろ、出版社はこぞって関連本を出し、子供たちは貪り読みました。テレビのゴールデンで特集までしたのですから、当時の冷戦で緊張した国際情勢とあいまって、我々世代は随分将来を悲観しました。馬鹿馬鹿しくて勉強を放棄した子供もいたくらいですから、考えれば随分罪な話です。

さすがに今は、その手の話は世の中に溢れかえっているので、今更社会現象を引き起こすまでの力はありませんが、最近気になるのは近隣諸国に対するヘイトスピーチです。
私たちは、隣国の女性大統領の暴言に相当頭に来ていますし、また、その隣の最高権力者の横暴にもはらわたが煮えくりかえっています。さらにその向こうの大国の覇権主義は怖くてなりません。
そして、彼らの私たちを貶める言動に非常に怒りを覚えています。

だからと言って、このところ雲霞の如く巻き起こるヘイトスピーチの洪水は、やはり異常です。この間の修学旅行の旅客船の転覆事故では、酷い人災で多くの高校生が若い命を散らしました。まずは、私たちは彼らの死を悼む心を起こさねばなりませんが、当時よくネットで見られた投稿は、そのような事件を起こす民族性と上層部へのバッシングばかりでした。つまり、苦しんでいる被害者も一括りにして、民族全体を貶める発言が飛交ったのです。
確かに、私たちにも貶められた恨みはありますが、それも所詮は一部の人間の煽動です。そして、それに呼応してヘイトスピークをするのも一部の人間です。それがネットの世界で拡散して、さらに繰り返し目に触れることにより、民族全体の意識に刷り込まれる怖さを感じます。
つまり、市の虎はネット社会でこそ出現しやすいのです。

あるとき、友人がネットで政治系の暴露ネタを扱うサイトを見て、魂消て相談してきました。「日本は、隣国のエージェントに牛耳られているってホントですか。」「世界は、特定の民族の思うままに支配されているのはホントですか?」「日本の政治家は白人支配に加担して、日本国民を売っているのはホントですか?」
素直な人だったので、ビックリしたのでしょう。そして、「あなたは、そんな記事を信じますか?」との問いかけてきました。

それに対して、私は「イエスでもノーでもない」と答えました。
「イエスではない」のは、もしその記事を受け入れてしまったら、特定のイデオロギーを持った団体にたいへんな利益があるからです。私たちが、その主張に踊らされるほど、彼らは私たちを支配し易くなるでしょう。ナチスによって戦争に叩き込まれたドイツのように、極端なプロバガンダに煽動されたら取り返しがつきません。

「ノーでない」のは、この世は表面的できれいな部分だけでないことを分かっているからです。ニュースや大手新聞が書いているだけが世の中の全てではないでしょう。戦時中の密約が今になって白日の下にさらされるように、裏ではどんなことが起きているか分かりません。それら極端と思える記事も、時にはその裏を覗かせてくれていると思うからです。

つまるところ、側近が魏王に懇願したように、この情報社会に於いても、私たちの目や耳が最後の砦です。市に虎が現れやすい時代だからこそ、しっかり目と耳を使い、自分の意見を持っておく必要があります。