今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

平和自体がひとを殺すことによって成り立つ、とは


(写真:ビロードの貴公子)

仏教が教える六道輪廻の中には、「修羅界」と言う世界があります。
この世界に生まれると、毎日、朝から晩まで戦いに明け暮れなくてはなりません。
人間界に生まれられたことに感謝せねばなりませんが、この世界でも内戦や国家間の扮装、そしてテロや陰惨な因習による殺害が溢れています。

協調の時代と言われて久しく経ちます。しかし、それは同じ利益を共有しあっている先進国の中でのみ通用することで、世界にはそのグループから外された恨みで、我らに一撃を加えるチャンスをうかがっている国もあるのです。
戦争放棄と口にしますが、先進国グループの傘に守られての平和であり、その前提がなければとても安易に口にできることではありません。
『平和自体がひとを殺すことによって成り立つ』と言われます。しかし、軍事力で維持できる平和しか知らない私たちは不幸です。

そもそも、私たちが自由と平和を獲得する歴史の中では常に武力は中心的役割を担ってきました。
明治維新も、長年の鎖国の眠りが黒船の来航で叩き起こされたことに端を発します。
やがて、薩長連合による倒幕へとつながるのですが、これもひとえに欧米諸国の武力に脅威を覚え、「このままでは日本もいずれ近隣地域のように植民地化される」という危機感がもとになっています。そして、旧態依然の価値観にしがみつき諸外国にひたすら恭順するしかない幕府では、この難局は乗り越えられないと判断しての倒幕であったのです。
その後成立した明治政府は「富国強兵」のスローガンのもと、国を富ませると同時に武力拡充を狙います。
つまり明治維新とは、外敵を打ち破るための武力によって日本国の存立を成し遂げようとしたもので、「花燃ゆ」で語られている志士たちの偉業も、つまるところ、より強い武力で敵を打ちやぶることを目指した人たちの英雄譚です。
もし、武力の拡充なしに国を守ることができれば、あのまま江戸時代を続けた方が余程安穏としていたでしょう。

ならば、軍隊があり、常時外敵と交戦していることの方が正常なのでしょうか。
しかし、今は昔と状況が変わっています。それは、地球がかつての世界に比べ格段に狭くなっているからです。経済は互いに依存し合い、インターネットを通じて互いの生活や文化を深く理解することができます。かつての「鬼畜米英」のようなプロパガンダは通用しづらくなり、「アラブの春」のように国家体制までネットの力で打ち倒す時代となりました。
また冷戦時代のようにイデオロギーを軸に対立することが難しくなり、結果的に「テロとの戦い」のように対立軸をずらす必要が生まれました。

相変わらず軍隊は必要か、不必要かの議論があります。しかし、武力でなければ平和を維持できなかった時代から、次の時代への進化は始まっています。
武力前提の前時代の影に踊らされるばかりでなく、新しい時代の可能性に目を向けてみるのはどうでしょうか。