今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

不戦の誓い


(写真:街の片隅の花畑)

ある時、自衛隊を放棄せよと演説する男性に、ひとりの若い男性が歩み寄ると、いきなり殴りかかりました。
とっさに演説をしていた男性は腕を前で組んで暴行を防ごうとします。
その彼に対して殴りかかった若者は、「誰でも殴られそうになったら、腕を前に出して自分の身を守ろうとするでしょう。それは自然のことです。なのに、貴方が『自衛隊を無くしてしまえ』と言うのは、その守るべき腕をもいでしまうに等しいのですよ。」と言いました。
それに対して、殴られそうになった男性は一言も返せなかったと言います。

確かに理屈はその通りで、深く頷かずにおれません。
大切な人を守るために戦うのは正義であり、好き放題されて、それでも握る拳がないのは意気地なしと非難されます。
しかし、こと国家間の戦争となれば、つまるところ人間同士の殺し合いです。実際、それを経験してきた人達の多くは如何なる戦争といえど、それを肯定することは絶対にありません。

ならば、義のために銃を取るのは正義か、はたまた不義なのか?
一度深く考えてみたいと思います。

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悪意のある相手には、どう立ち向かうのか?
最初からこちらを食い物にしようと近づいてくる相手には理屈は通じません。だから、結局力でねじ伏せることになります。
それは、子供向けの「ドラえもん」にしろ、「ポケットモンスター」にしろ、ディズニー作品にしろ、そう教えます。

しかし、これでは戦争放棄をうたった日本国憲法第九条が無意味にならないでしょうか。
もし、悪意のある隣国が戦争を仕掛けてきたらどうなるか?街に戦車で乗り込まれて、好き放題略奪や蹂躙をされて黙っていられるか?
そんな時、戦争放棄などと言っておれるでしょうか?
いや、それは国際社会が黙っていないとか、同盟国が守ってくれるはずとは言いながら、最近はその同盟国から軍事負担を一部賄って貰いたいと打診がある始末。

それでも、戦わないと言う選択は、戦う以上に勇気がいることです。
ただ、何となく「今まで戦争しなかったから」という流れで、安易に「戦争反対」とばかり言えないのです。
それでも敢えて「戦争反対」を貫くならば、それはたいへんな覚悟がいると同時に、非常に価値のある全人類への宣言です。
どれくらいの覚悟か、この小説でその何十分の一でも伝わればと思います。

劇中で主人公に喋らせたように、私たちはアニメや映画、ゲームであまりに安易に人を殺すことや血を流すことに慣らされ、鈍感になっています。そして、私たちが実際に銃を手に取って戦うことのリアリズムを失いつつあります。
また、戦争へのプロバガンダは、霧島茜のように、決して火の粉のかからないところにいる人種が煽っています。
戦争に向かう構造はこのように造られるのです。
何度も言いますが、戦争放棄を口にするのは、たいへんな勇気が必要です。
しかし、それを一番声高に叫ぶ従軍体験者たちには、それを裏付ける重い体験があります。今一度、それらの人の声に耳を傾ける時期ではないでしょうか。