今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

はじめの一歩

f:id:FairWinder:20150423121557j:plain
(写真:春の里)

中島敦に「山月記」という短編小説があります。
中学の頃、教科書に載っていて、独特の文体に惹き込まれるようにして読んだ記憶があります。

〜・〜

物語の舞台は中国の唐の時代です。
主人公は李徴という人物で、かつては郷里で秀才と名を馳せた人でした。
しかし、片意地で自尊心が強い彼は、役人の身分に満足できずに、官職を辞して詩人で身を立てようとします。ところが、それも上手くいかず挫折。ついには、小役人に職を得て、屈辱的な生活に耐えます。
その後、地方に出張した際に発狂し、そのまま行方知れずになってしまいます。

翌年、李徴の数少ない友人で高位の役人であった袁傪が地方を旅していた時のこと、「人食い虎が出るから夜の旅はおやめなさい」と言う制止を「先を急ぐから」と振り切って、月が明るく残る未明に旅立ちました。
その途中、袁傪に一匹の猛虎が襲いかかります。そして、あわやその牙に噛み砕かれようとする時、急に大虎は身を引き、茂みに姿を隠します。
茂みからは、「危ないところであった。もう少しで友を殺すところであった。」とつぶやく声が聞こえます。
袁傪には、その声に覚えがありました。「君は、李徴ではないか。今までどうしていたのだ。」
「いかにも、私は李徴だ。」
それは、昨年発狂して行方知れずになった旧友の李徴でした。
「どうした李徴。姿を見せてはくれぬのか。」
「もし、私が姿を見せれば、君は驚き、恐れるであろう。よく聞いて欲しい。先程君を襲った血に飢えた虎こそが、かつての李徴の変わり果てた姿なのだ。」

そうして、李徴は自分が虎に変じた経緯を語ります。
「昨年、何者かの声に惹かれ、わけのわからぬまま野山に走り込んだ。そして、気が付けば虎になっていたのだ。
時折、人間の意識に戻ることもあるが、ほとんどの時は虎として人や獣を襲って喰らっている。
その人間の意識に戻ることもだんだんと少なくなっており、いずれ人間の心を失って、完全に虎になるであろう。」
さらに、李徴は続けます。
「そこで君に頼みがある。まだ、私が記憶がしている数十編の詩を書き残してくれないか。」
それを袁傪は受け入れ、李徴が明るい月光の下で朗ずる詩を部下に書き取らせます。
それらは、いずれも見事な出来栄えでしたが、微妙な点において劣るように袁傪には思えました。
感想を求められた袁傪がそれを伝えると、自嘲気味に李徴は語ります。
「わたしは、詩作においても頑なに人との交流を避けた。皆はそれを私の傲慢さ故と言った。
しかし、本当はそうではなかったのだ。それは臆病な自尊心と、尊大な羞恥心の為せる業だったのだ。
本当は詩才がないかも知れないのを自ら認めることを恐れ、かと言って、苦労して才を磨くことも嫌がった。それは私にとっての心中の虎だった。
そして、ついには本物の虎に身を堕としたのだ。」

夜明け間近、別れを惜しむ袁傪に、「君に、私の妻子のことをくれぐれも頼みたい。
私は間も無く虎に戻るであろう。早くここを離れ、しばらく経ったら振り返って欲しい。この醜い姿を見て、二度とここへ来て会おうと言う気持ちが起きないように。」
そして、袁傪の一行が言われた通りにすると、朝焼けの光ですっかり光を失った月の下、一匹の猛虎が躍り出ました。虎は咆哮すると共に姿を消し、再びその姿を見せることはありませんでした。

〜・〜

この話は非常に身につまされます。
特に、「臆病な自尊心と尊大なる羞恥心」という下りは、自ら動こうとせず、動いては失敗している人を嘲笑っている醜い自分の心の姿です。
でも、本当は動いている人が羨ましくもあり、妬ましいのです。だから、失敗を願う心さえあります。
しかし、蒔いた種は必ず生える。一時は、挑戦して恥をかいても、何度も繰り返す内に本当の成功に辿りつきます。
その時、偉そうに傍観していた自分はどうでしょう。ただただ、自分の臆病さと不甲斐なさを呪い惨めになるだけではないでしょうか。

私の中にも、臆病で獰猛な虎はいます。しかし、勇気を出して一歩踏み出せば、後は引くに引かれず、行くところまで行かなくてはなりません。
必要なのは、はじめの一歩。
自分の中の虎を打ち破るのは、この一歩です。