今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

権力について

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(写真:宵の月)

『権力』とは、「ある主体が相手に望まない行動を強制する力である」と解説されています。
そして、『権力』とは、相手を自発的に服従させる公式的な能力『権威』と、相手に嫌悪的な刺激的を与える能力『暴力』を合わせた言葉と言われます。
人を、時には権威で服従させ、権威を認めないものには、暴力で屈服させる力ということなのですね。

あと、『権』には「仮り」という意味があります。とすれば、『権力』とは「仮の力」ということになりますね。
何故、「仮り」なのか?
それは権力は、それを持っている人自身の力ではなく、周りが認めてその人に預けた力だからです。
周りが認めなくなったら、権力者は普通の人間になってしまいます。
かつて、大野伴睦が「猿は木から落ちても猿だが、政治家は選挙に落ちたらただの人」と言った通りです。

権威が失墜した権力者ほど悲惨なものはありません。
リビアで42年間も独裁政治をひいてきたカダフィ大佐も、退陣を求める内戦により、最後は民兵に拘束され頭を撃ち抜かれました。
イラクのフセイン、ユーゴスラビアのミロシェヴィッチ、ルーマニアのチャウシェスクと皆最後は悲惨でした。日本陸軍を率いた東条英機も、敗戦と同時に戦犯となり、巣鴨の刑務所で酷い扱いを受けた末、絞首台に消えました。

そのためか、権力者は手を尽くして自己を権威付け、神格化を計ります。
豊臣秀吉は、小作の倅でありながら、最高の官位である関白を求め、さらに権威付けのため、源氏に連なる家系図をでっち上げました。
徳川家康も、死んで東照権現と神に祭り上げられました。
ソビエト連邦のスターリンなどは、寝室を密室にしていました。一つは暗殺を恐れたためでしたが、一般から離れた環境で起居して権威付けを図ったものと思われます。しかし、その密室で脳卒中に倒れ、発見が遅れたため治療が間に合わずに死んでいます。

ですから『権力』とは、本来私たち個々の力を集めて、特定の人に預けるものです。そして、その特定の人を選ぶ機会が選挙です。
また政治家はその力を預かるに相応しい人間かが常に問われなくてはなりません。
しかし、これは、あくまでも民主主義の世の中だから言えることです。未だ世界には、預かっている力を我が物と勘違いして好き勝手振舞う支配者が多いのが現実です。
また、この日本でも、権力のベールの下で行われていたことが明るみに出て大問題に発展しています。
『民草』という言葉もあるように、権力者にとっては、一般の民衆は草木と同等なのかもしれません。

古代中国では、天が選んだ人に権力を授けるという思想がありました。そして支配者が相応しくない行いをした時には、天の意思に反したのだから、力で排除して構わないと思われていました。
その天は何を指すのか定かではありませんが、本質的に『権力』は私たちの方から預けているものであり、権力者はそれを自覚して自らの言動に説明の責任を果たす必要があります。
また私たちも預けっぱなしではなく、預けたものが正しく使われているか、よく目を凝らさねばならないのだと思います。