今日学んだこと

生きることは学ぶこと。オレの雑食日記帳。

自分が死んでいく時

f:id:FairWinder:20150315045009j:plain
(写真:ビルヂングの足もとにて)

『お前が生まれた時、お前は泣いて、皆んなは笑っていた
そして、お前が死んでいく時、皆んなが泣いて、お前は笑っていられるようにしなさい』

生まれたばかりの赤子は母の胎内から娑婆に放り出されて泣き叫びます。
それは、喜びのためなのか、苦しみのためなのか、遠い昔なので記憶にはありません。それとも「オレはここだ!はやく世話をしてくれ!」の催促なのかも知れません。
反対に、父親も、母親も、詰めかけた家族も、皆んな生まれた赤ん坊に対してニコニコ笑っていました。
本当に『お前が生まれた時、お前は泣いて、皆んなは笑っていた』です。

対して、
『お前が死んでいく時、皆んなが泣いて、お前は笑っていられるようにしなさい』はどうでしょうか。

この歳になれば何回も葬式に立ち会う機会がありますが、なかなか涙にくれる葬式には出会えません。ある程度長生きすれば、それで本人も十分だと周りが納得するからでしょうか。
確かに、働き盛りの若い人が亡くなった時は、その早すぎる死を悼んで多くの人が詰めかけ涙を流します。
その意味では、『皆んなが泣いて』いますが、亡くなっていく本人は『笑っている』どころではありません。

すると、皆んなが泣いて、自分は笑っていられる臨終は、どんな最後なのかと考えてしまいます。
そもそも自分が笑っていられる臨終がたいへん難しいのです。
事業を成し遂げ、戦乱の時代に終止符を打った太閤秀吉ですら『夢のまた夢』と言っているのです。まるで自分の人生が徒労だったと言わんばかりの辞世に、とても笑って死んだとは思えません。

人生最後の満足感は、どれだけこの世の宝、例えば金銀財宝、地位、名誉を掻き集めたか、とは関係ないようです。
ひょっとしたら、その人が一生かかって、どれだけの人を笑顔にできたかによるかも知れません。
きっと、そんな人は生きている時は周りから『損ばかりしている』と見られているでしょうね。その善意につけこむ人間もいるかも。
しかし、そのご褒美は最後の最後に来ます。
皆んなが、その人の死を悼み涙を流し、反対に自分は、やりきった満足感で逝けるのです。そんな最後でありたいと心から願います。

でも、臨終に満足の言葉を残して逝く人は希です。
秀吉の「夢のまた夢」から始まって、夏目漱石の「いま死んでは困る」まで、後ろ髪を引かれて逝く人の事例には事欠きません。
ただ、中には「和歌浦話の片男波の寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ」と、「行ってもすぐ戻ってくるからな、いつもお前の側にいて応援しているぞ」と勇ましい辞世もあります。
最後そんな辞世を心から言って、笑いながら旅立つ、そうできる人生を送れたら最高です。