今日学んだこと

分かっていることは書かない。分かっていないから書いて学ぶ。だから「今日学んだこと」なのです。

相手に最後まで喋らせる度量

(写真:錦の夜と昼)
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「少しよろしいですか?」

そう声をかけられる時は、たいてい頼まれごとか、改善要求です。
頼まれごとの場合は「ああ分かりました」で終わりますが、自分への改善要求は「ちょっと待って」と口を挟みたくなります。
なぜなら改善要求は、皆んなにとって都合の悪いことをしている自分がいるからで、聞いて気持ちの良いことではありません。
そして、自分に関していろいろと並べられると相手を「ちょっと待て」と黙らせたくなります。

それは、とある国の殿様のことです。
ある時、城の門前に立て札が立てられ、それには「この国に十悪人あり」と書いた紙が貼られていました。
さっそく家臣が殿様に献じたところ、それを見た殿様は、

「はて、10悪人のうち9人までは名前が書いてあるが、あと1人の名前がない。誰のことじゃろう?」

と言いました。
すると、まだ年若い近習の1人が

「それは殿のことでありましょう。9人までは家臣なので構いませんが、あと1人ははばかられる方ゆえ、わざと名前を抜いたと思われます。」

「なに?異な事を言う。余が悪人じゃと。ならば、余に悪いところがあれば聞いてつかわすから、なんでも申してみよ。」

「ならば」と、その近習は指を折りながら殿様の悪いところを立て板に水を流すように挙げたのです。
家臣の前で散々こきおろされて、最初は憤怒やる方なく肩で荒い息をしていた殿様でしたが、よくよく聞いてみれば確かに思い当たることばかりです。
後日、殿様はその近習を重役に取り立て、献策をよく用いたので、後世名君と言われたそうです。

人間は誰しも「自分は正しいことをしている」と思っているから、容易に人の意見を聞くことができません。
側から見れば明らかなので、「なぜこの人は分からないのだろう」と思います。しかし誰しも、自分のことに触れられると神経に直接触られたように飛び上がって嫌がります。
その点、この殿様は立派でした。
「年若い近習に感情的になっては家臣の手前恥ずかしいと」言う計算はあったとしても、後日自分をこき下ろした相手を側近に加えているからです。
余程いつも、「正しくありたい」と心がけていた殿様に違いありません。そんな人でも悪人と言われれば素直に聞くことは難しいのです。

私たちが人を恐れる本当の理由は、「自分は正しいことをしている」と自惚れているからです。
その自分に直言する相手は、自分の自惚れを否定して破壊する怖い人です。
しかし仮に素直に自分の非を認める姿勢が身についていたら、どうでしょう。
間違っていたら「素直に謝って改めれば良い」
正しければ「やがて相手から詫びを入れてくるから、なにも卑屈になることはない」と、何者にも恐れることのない、おおらかな人生となるでしょう。

しかし、自分に対する自惚れのない人間を探すことは、ヘソのない人間を探すより難しいので、せめて、この殿様のように相手の話を最後まで聞く度量を持ちたいと思います。
もちろん腹は立ちますが、100まで数えて振り返ってみれば、確かに言われても仕方ない人間です。そう腹に落として向上したいと思います。