成長とは、考え方×情熱×能力#55
それぞれの道
歌陽子(かよこ)の学友は、桜井希美、松浦結花里と言った。
すらっと背の高い希美、薄いブルーとドレスが彼女の細身の身体を引き立てていた。
対して、少ぽっちゃりした結花里、ピンクのドレスが彼女に柔らかな印象を添えていた。
タイプの違う二人は、長年、歌陽子が親しく付き合ってきた学友だった。
希美は江戸時代から続く商家の末裔で、古い屋号を守りながら、今やシンガポールに拠点を構える貿易会社社長の令嬢だった。
結花里は、代々続く教育家の家系で、父は有名私立大学の理事長を務めていた。
才気溢れる希美と、美人の結花里、一緒にいると歌陽子は自分が二人の引き立て役のように感じていた。
しかし、むしろ二人の方が、彼女を「かよこさま」と呼び、歌陽子を引き立てようとした。その距離感が歌陽子には心地良く、二人は彼女にとって特別な友だちだった。
小中高、そして短大と一緒に過ごし、東大寺家の計らいで、二人も歌陽子とともアメリカの有名大学への留学が決まっていた。
しかし、当の歌陽子が留学を拒否し、自ら一般の会社に飛び込んでしまった。
二人はとても落胆し、歌陽子と一緒に日本に残る気持ちを固めていたが、歌陽子の父、東大寺克徳のたっての願いで予定通りアメリカへと留学した。
歌陽子が入社一ヶ月後、体調を崩し一旦休職した時も、わざわざ二人揃ってアメリカから帰国し、しばらく日本にとどまって歌陽子を励ましてくれた。
歌陽子にとっては、とても大切な友だち、かけがえのない親友たちだった。
「あの、歌陽子さまのお父様から今日メールをいただきましたのよ。」
家族ぐるみの付き合いをしている東大寺家と、桜井家、松浦家の令嬢たちは、歌陽子の父親の克徳ともメールアドレスを交換していた。
「『出来の悪い娘だが、今は歌陽子なりに頑張っている。道はそれぞれ違ってしまったが、今日くらいは旧交を温めて欲しい』ですって。」
「まあ、希美さん、『出来の悪い』まで読まなくても良くてよ。歌陽子さまに失礼でしょ。」
「あはは、そうですわよねえ。」
まるで二輪の花がまとわりつくように、二人の女性はくるくると笑いあっていた。
(二人とも変わらないなあ。私も昔はこんな言葉遣いをしていた時期もあったかしら。)
「歌陽子さま、最近はどうですの?また、辛くはなってらっしゃらない?」
「はい、最近はすっかり一会社員が板につきました。雑草魂のようなものが、身についたんでしょうか。」
「まあ、以前の歌陽子さまとは別人みたい。なんだか言葉遣いもキビキビされて、頼もしく思えますわ。」
(そりゃ、そうでしょうとも。)
今度は歌陽子から二人に質問を投げかけた。
「予定では、再来年にはお二人とも日本に帰っていらっしゃるんでしょ。その後、どうされますの?」
「私は、父の会社に入りますわ。まずは父の秘書として、会社の仕事のことを覚えるんですの。」
民間企業家の娘の希美は、既に少しづつビジネスウーマンの顔をのぞかせていた。
「結花里さんは?」
「私は、お父様の紹介で美術館に勤めることになりましたの。それで、ゆっくり絵の勉強をすることにしましたの。」
結花里は画家志望であった。
(みんな、しっかりしているなあ。私なんか、外に飛び出さなかったら自分の足で歩くことなんかできなかったのに。)
「そう言えば今日、男の方々もお越しになりますのよね。」
そう、希美が聞いた。
その時、歌陽子は後ろに立っている安希子の目が光った気がした。
小中高、短大とお嬢様学校に通った歌陽子に本来男友達はいないはずである。
しかし、折に触れ東大寺家や学友の家で催される行事で、親しくなった男友達はたくさんいた。
誕生会にも招き、招かれているうちに、歌陽子の誕生会には毎年参加している男友達が10人以上いた。
多分、そのことを言っているのだろう。
彼らは全て上流階級の子弟であり、また世に言う一流大学で学ぶものも多かった。
その交友の中から、将来歌陽子の夫となり、宙ともに東大寺家をになう人物が現れることを周りは期待していた。
歌陽子とて、心ときめかせた相手の一人や二人はいるにはいた。
しかし、あまり異性慣れしていない彼女は、それ以上深く付き合うことをして来なかった。
でも、歌陽子も21、そろそろそちらも、うるさくなる頃である。
(#56に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#54
学友
東大寺邸の2階に作られたホールは、数百人が一同に会してパーティができる広さであった。
もともとは、昭和初期、貿易で成功した当時の東大寺家当主が国内外の賓客との社交の場に、舞踏会や晩餐会を開催する場所として作ったものだった。
その後、奇しくも屋敷は空襲にも遭わず、戦後の財閥解体で企業グループは一旦バラバラになったものの、当時屋敷を守っていた当主のもと再集結を果たし、今の発展の基礎を築いたのであった。
いわば、東大寺家の歴史を象徴している場所が、東大寺邸のホールだった。
歌陽子(かよこ)の21回目のバースデーパーティは、午後五時からこのホールで開催される。しかし、午後三時には来客を迎える準備を終え、ホールは開場した。
そして主役の歌陽子は、パーティドレスに身を包んで、ホールの扉の内側で来客の訪れるのを待っていた。
彼女のそばには、ハウスキーパーの安希子、そして数人のメイドが付き従い、今日は名実ともに東大寺家の令嬢としての威厳を表していた。
やがて、早々に顔を見せたのは歌陽子の以前の学友たちであった。
子供のころからお嬢様学校で過ごし、名家の令嬢たちに囲まれながらもなお、歌陽子は特別な存在だった。
家柄も、経済界に与える影響も、そして財力も東大寺家の歌陽子にかなう娘はいなかった。
歌陽子は子供のころから、彼女たちに囲まれ、プリンセスのようにちやほやされた。そして、子供の頃はそれを何のためらいもなく受け入れていた。
しかし、中学に進んだ頃から、歌陽子は自分の凡庸さを思い知らされ始めた。
勉強や運動が得意なわけでなく、だからと言って何か人より優れたものがある訳でもない。
ただ、東大寺家の令嬢と言うだけで、周りは自分を取り巻き、いつも耳障りの良い言葉を聞かせてくれる。
じゃあ、私の価値って何なの?
つまらない石ころに金箔を塗って、それをみんな有難そうにしているだけじゃなくて?
それが、悩みで学友たちから少し疎遠になりかけた時期もあった。
でも、そんな歌陽子の気持ちとは裏腹に、学友たちは彼女のことを放ってはおかなかった。事あるたびに声をかけ、自分のそばに立たせておこうとした。
今思い出しても、私は地味なメガネの女子に過ぎなかったのに、なぜみんな奪い合うように私と過ごしたがったのだろう。
ひょっとしたら、東大寺家令嬢と懇意な自分にみんな酔っていただけかも知れない。
だが、それは皆んながとても優しく、心地の良い言葉ばかりを聞かせてくれた時間だった。
(でも、自分はみんなにそのように扱って貰える人間じゃないことは知っていた。知っていながら、東大寺歌陽子を演じ続けなきゃならなかった。そう、ずっと自分に嘘をついて過ごしていたんだ。)
(それに比べて、今の私の周りにいる人たちの厳しいことったら。褒めるどころか、朝から晩までけなされ、小突かれてばかりいる。
「グズ」「バァカ」「ブス」、この1年たらずで、今まで20年間で言われたよりも何倍も聞かされた。落ち込んだし、何度も泣かされたけど、ここでは私は私でいられる。)
かつての学友の顔を見ながら、歌陽子の脳裏に一瞬で去来したのはそんな思いだった。
「わあ、歌陽子さまあ、お久しぶり。」
「あ、希美さん、結花里さん。お元気そうですね。」
「歌陽子さま、すっかり大人っぽくなりましたね。」
「もう21ですから。」
「ですよね。ふふふ。」
「うふふ。」
東大寺邸に花が咲いたようであった。
(#55に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#53
厨房にて
いつもは昼過ぎまで自室に籠っている宙が、珍しく厨房の椅子に腰をかけ、所在なさげに足をブラブラとさせていた。
厨房では母親の志鶴が、歌陽子の誕生日パーティの準備に忙しい料理長相手に愚痴を言っている。
「今年からは大袈裟なことはするなって言うけど、去年以上にお客様がパーティに集まるのよ。政財界や、取引関係の人も大勢いらっしゃるのに、大袈裟にするなって言う方が無理よね。
それで、『どうするんですか?』って聞いたら、『細かいことは任せた』ですって。全く男はみんな勝手なんだから。」
「全くですねえ。」
「でしょ、全く腹が立つわ。」
「奥様、料理の打ち合わせがあるので、 ちょっとよろしいですか?」
「あら、ごめんなさい。」
そう言って料理長は、他の調理人を連れて奥に引っ込んでしまった。
「母さん、みんな忙しいんだから邪魔しちゃダメだよ。」
まだ、中学生の宙が大人びた口調で言った。
「まあ、この子は。私はみんなと相談してたんじゃない。そんな、遊んでいるみたいな言い方しないでよ。」
「だって、父さんが大袈裟はダメだって言い出したのは昨日だろ。仕込みだって、段取りだってあるのに、今更急にメニューを変えられるわけないじゃないか。」
「もちろんよ、分かっているわ。だけど、去年並みにご馳走を並べたら、お父様が機嫌悪くなるでしょ。だから、どうしたらいいか困って話し合っていたんじゃない。」
「それは、母さんが怒られたらいいだけじゃん。」
「もう、簡単に言わないでよ。」
「だけどさ、なんで姉ちゃんばっかりなのさ。」
「え?」
「だから、父さんの誕生日も、母さんの誕生日もパーティなんか開かないじゃないか。」
「そりゃ、お父様と私は大人ですもん。」
「姉ちゃんだって大人だろ?」
「そうね。それにもう社会人なんだし、今年からはもう止めようって話していたのよ。むしろそうしたいって言って来たのは歌陽子の方よ。」
「じゃあ、やめたら良かったじゃん。」
「でもねえ、そんなにうまく行かなかったのよ。去年ね、みんなで来年の誕生会のパーティは止めようって話をしたの。それで、お父様から先代のお祖父様に、『来年の歌陽子の誕生会は身内だけでします』って伝えて貰ったのよ。何しろ、歌陽子の誕生日にパーティを開くのはお祖父様が始められたことだったから。」
「そうしたら?」
「そうしたら、お祖父様がものすごい剣幕で怒り出したの。宙はあまり知らないだろうけど、引退されるまでのお祖父様は、それはものすごく怖い人だったんだから。
お父様が『久しぶりに冷や汗かいた』って言うくらいだから、相当凄かったらしいわ。」
「だから、じいちゃんに気を使って今年もやるんだ。でも、じいちゃんは、どうして姉ちゃんばっかりそんなに可愛がるのさ。」
「歌陽子は初孫だったし、女の子だしね。可愛くて可愛くてたまらないんでしょうね。それにお祖父様が引退されて、田舎に引っ込まれた後も、農繁期は毎年手伝いに行っていたしね。」
「しっかり点数稼ぎしてたんだ。」
「もちろん、宙も大切な孫よ。宙が生まれた時も、そりゃお祖父様、デレデレだったんだから。」
「でも、俺、あんまりじいちゃんに可愛がられた覚えがないな。」
「うん、あのね。歌陽子に言っちゃダメよ。あの子、子供の頃はものすごく僻みっぽい性格でね。お祖父様やお祖母様が宙を可愛がると、すごく拗ねたのよ。だから、あまり歌陽子の前であなたのことを可愛がるのは控えるようにされたの。あなたは赤ちゃんだったし、歌陽子はちょっと難しい時期だったからね。
結局、歌陽子はお祖父様とお祖母様に甘やかされて、ちょっとポーッとした子に育ったし、その分あなたはお父様と私が東大寺家の跡取りとして大事に育てたつもりよ。」
「チェッ、なんだよ、結局ねえちゃんいいとこ取りかよ。」
「ほら、悪くとらないの。歌陽子も今そのつけが来て苦しんでるんだから。それに、毎年誕生日のたびに派手なパーティを開かれるのって、本人にとってはとてもしんどいと思うわ。今じゃ、歌陽子のためじゃなくて、お父様と関係のある人たちが集まる社交の場ですからね。でも、歌陽子は一応主役だし、精一杯愛想を振りまいたり、おもてなしをしなければならないし、ある意味いい見せ物でしょ。心ない人の声も聞こえて来るしね。
だから、そういうものを背負って苦しんできたのは間違いないわ。」
「じゃあ結局、ねえちゃんは分不相応なものを与えられて苦しんでるんだね。」
「そう、分かってあげて。宙、いずれ歌陽子とあなた二人でその重荷を分け合って、力合わせて東大寺家を支えてもらうのがお父様と私の願いよ。」
「大丈夫だよ、ねえちゃんなんかいなくたって、俺一人で十分だから。」
「宙・・・。」
「父さんは最近ねえちゃんが頑張っていると誉めてるけど、あの程度じゃ頑張ってもたかが知れてるし、今まで通りお飾りをやってればいいんだ。」
「宙、あなたも前はお姉さんのこと、あんなに大好きだったでしょ?」
「前はね。世の中がよく分かっていなかったしね。だけど、今はこの世がそんなにきれいごとばかりで動いていないって分かるし、能力もない人間が上の方にいて不幸を生み出してるってことも知っているし。」
「まさか、それお姉さんのことを言ってるの?」
志鶴には、とても今目の前にいるのが、まだ14歳の中学生とは思えなかった。
「さあね、でも俺ならねえちゃんにはもっと分相応の生活をさせるかな。」
「宙・・・、あなた、一体・・・。」
「じゃ、今日は俺もお客さん呼んでるから、そろそろ行くね。」
思わず絶句した志鶴を後に、宙は椅子から立ち、厨房を出て行くのであった。
(#54に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#52
婿取り
「い、っ・・・たああ、安希子さん、い、いたあい。」
「も、もう少しです。お嬢さあまあ。うう・・・ん。」
「くっ・・・、ううう。」
「はあ、ふう。お嬢様、かなりお太りになったんじゃありません?」
「は、はあ、そんなはずないです。むしろ昔よりやつれたって言うか・・・うっ・・・。」
「でも、中にはストレスで太るタイプもいますからね・・・!」
「て、言うか、安希子さん、なんでこんなにウェストを締め付ける必要があるんですか?」
「そりゃ、今日はお嬢様の昔のご学友もたくさん来られますし、中には一流大学で学んでいる殿方もおられるではないですか。
ここは一つ歌陽子お嬢様が頑張って優秀な殿御のハートを射止めて貰わなければ、せっかくの旦那様のご苦労が報われません。」
「ちょっと待ってください。話が飛躍し過ぎです。今日は私の21回目のバースデーを祝って友達が集まるだけですよ。なぜ、殿御とか、ハートを射止めるとか、お父様の苦労が報われないとか言う話になるんです?」
「ですね、失礼しました。ならば、お嬢様の頭でもきちんと分かるように話をします。」
会話の舞台は東大寺家。明けて1月6日は歌陽子の21回目の誕生日であった。
そして、会話の主は歌陽子と、毒舌ハウスキーパーの安希子だった。
安希子は、歌陽子のパーティ用のドレスの着付けを手伝っていた。安希子はなんとか歌陽子のウェストを少しでも細く見せようと必要以上にギュウギュウとコルセットを締め上げ、また歌陽子はそれに耐えかねて悲鳴を上げていた。
「だいたいお嬢様の体型は子供っぽいんです。もう少し出るところが出てれば良いのに、せめてウェストくらい締めなければメリハリがつかないじゃありませんか。」
「う・・・、それまるで私が幼児体型みたいに聞こえるじゃないですか。」
「みたいじゃなくて、実際にそうなんです。よし!あ、もう少し、胸を寄せようかしら。」
「あ、ちょっと、やめて!潰れます。い、痛い!」
「あと少し我慢です。これでよし!」
「はあ、う・・・・っ、どうして私、そんなに大人っぽく見せなきゃならないんですか?」
「それは、お嬢様がもっと女の魅力をだせば、優秀なDNAを呼び込めるじゃありませんか。」
「優秀なDNAって、そこまで露骨に言わなくても・・・。」
「だって、ですよ。お嬢様、もう21じゃないですか。昔ならとっくに行き遅れですよ。少しは焦らなくてどうするんですか?」
「そんな、人生40年時代と比べないでください。それに、私は私でちゃんとしますから大丈夫です。」
「いいえ、分かっていないのはお嬢様の方です。お嬢様はご自身のことだけを考えていては駄目です。立派な殿方と結ばれ、ゆくゆくは東大寺家を背負って貰わねばなりません。」
「だって、跡継ぎなら宙がいるじゃない。」
「宙お坊っちゃまは、確かに頭はいいかも知れませんが、あれでは将来が案じられます。いずれにしろ、歌陽子お嬢様の旦那様にもしっかり支えて貰わなくてはなりません。」
「つまり、こう言うことね。私のバースデーに集まった昔の学友から、優秀な男子を見つけて、はやく婿取りをしろって言いたいのね。でも・・・。」
「はい?」
「それって、いつもお母様がこぼしていることじゃありません?」
「ん・・・その、それもありますけど。」
「安希子さんには、お母様の言うことは絶対ですもんね。分かりやすいなあ。」
「ムッ・・・。」
「あ、怒った?」
少し気になって、安希子の顔を覗き込む歌陽子。
「あの、私と奥様では、意見が違うところもあります。それは、いくらお嬢様が優秀なDNAを引き込んだとしても・・・。」
「な、何ですか?」
「お嬢様の血で薄まってしまえば何の意味もありません。」
(そう、来るかあ。)
(#53に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#51
先代張り切る
東大寺グループ、代表 東大寺克徳の執務室では、二人の男性が眉間に皺を寄せて話し合いをしていた。
「お父さん、今年からはもうこんな大袈裟なことはやめてください。」
一人は言わずと知れた、東大寺克徳、歌陽子(かよこ)の父親である。
「じゃが、これは老い先短い老人の唯一の楽しみなんじゃ。それを奪うような真似はせんでくれんか。」
もう一人は、東大寺正徳、東大寺家の先代当主であり、克徳の父親、つまり歌陽子の祖父である。
「程度のことを言っているのです。別にやめろなんて言っていません。だいたい、お父さんは歌陽子を猫可愛がりし過ぎです。
確か、歌陽子が5歳の誕生日の時でしたよね。都内のホールを借り切って、オーケストラまで雇って、歌陽子に習い始めたばかりの『猫踏んじゃった』のリサイタルをさせたのは。会社関係や取引先や、父兄会まで声をかけて500人のホールを一杯にして、それで聞かせたのが下手くそな『猫踏んじゃった』ですから、未だに思い出すと恥ずかしくてたまりませんよ。」
「いいじゃろ、みんな喜んでくれたんじゃから。」
「違います。あれは、歌陽子の演奏を喜んだんじゃありません。記念品で包んだ一本5万もするワインに集まってきただけです。それに、あとで歌陽子の下手な演奏をDVDにして全員に配ったでしょ。それだけで、経費は5千万を超えてるんですよ。」
「金の問題じゃないじゃろ。歌陽子の5歳の誕生日は一生に一回きりじゃ。その時に、一番喜ぶようにしてやりたいと思って何が悪いんじゃ。」
克徳は聞き分けのない老人に対して、喉の奥からため息を吐きながら言った。
「はあ、これだけは言ってはならないと思いましたがね・・・あえて言います。
確かにまだ5歳の歌陽子はそれで喜んでいたでしょう。しかし、小学校に上がってから、遊びにいく友達の家、遊びに行く友達の家で当時のDVDを見せられて、恥ずかしくて泣いて帰ってきましたよ。
しばらく、登校拒否みたいになっていたのをご存知でしょう。そうそう、その時、これ幸いとお父さんは歌陽子をエジプトに連れて行ってましたけど。」
「いいじゃろ。なんでも経験じゃ。」
「だからって、要らないトラウマを経験させてどうするんですか?」
「わしは、みんな歌陽子に良かれと思って・・・。」
「あ、ああ、分かりましたよ。だから、そんな顔しないでください。私が言い過ぎました。」
「じゃあ、わしは好きにしてええな。」
「ですが、この大型クルーザーだけはやめてください。」
「何じゃと?お前がバンバン気前よく高い車を買い与えるから、わしが勝とうと思ったらクルーザーぐらいしかないじゃろ。」
「ですが、こんなクルーザーがいくらすると思ってるんですか?第一、お父さんは財産のほとんどを私に譲渡して、現金もあまり持たれないでしょ?」
「なんの、東大寺グループの株を抵当にいれれば、1億や2億くらい用立てるなど軽いもんじゃ。」
「やめてください。本当にやめてください。それに、こんなもの買い与えて維持費はどうするんですか?」
「なんじゃ?年に一千万や二千万でビクともするお前じゃあるまい。」
「いや、その、歌陽子はもう社会人ですし、自分の給料の中でやることも覚えないと。」
「いくらくらい貰っとるんじゃ?」
「おそらく手取りで15万いってないかと。」
「なんじゃと!それじゃ車の維持費にもならんじゃろ!」
「そうです。ですから、屋敷の生活と車は別にしています。安い車で事故をして怪我でもされたり、電車通勤で痴漢にでも襲われたら敵いませんからね。でも、なるべく外では自分の給料の中でなんとかしようと頑張っています。」
「じゃが、それでは東大寺の令嬢としてのメンツが立つまい。」
「お父さんが言わないでください。いつも野良着で歩き回っているくせに。」
「わしはいいんじゃ。じゃが、歌陽子はまだ未来のある身じゃぞ。」
「ええ、分かっていますとも。私も一度はそれで厳しく歌陽子を叱りました。でも、手取りが15万と言うことは、今の歌陽子の社会的価値がそれくらいと言うことです。だから、分相応に生きたいと言われたら何も返せんじゃないですか。」
「お前は子供に甘いのお。」
「甘いのはお父さんの方です。とにかく、クルーザーはやめてください。第一、歌陽子自身が欲しがってないですから。」
「分かったわい。しょうがないから、一億円分の商品券でもくれてやろうかい。」
「なんか言いました?」
「なあんにもじゃよ。」
そう言い残して、先代の東大寺当主は、大股で部屋を立ち去ろうとした。
「どこへ行くんですか?」
「明日の準備じゃ。忙しいからもう行くぞ。」
「だから、あまり派手なことはやめてくださいね。」
「分かっとるわい。うるさいのお。」
(#52に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#50
バースデー
新年明けて、出社初日。
歌陽子(かよこ)には、野田平、前田町、日登美ら三人に報告することが山ほどあった。
しかし、まずは無難なところから。
「日登美さん、息子さんから今朝ほど、ロスアンゼルスに無事到着したとメールがありました。」
「そうですか。昨日もお見送りをお願いして申し訳ありませんでした。」
「いえ、いえ、あれだけお世話になったんですから当然のことです。」
「ほんとに、実の親にすら、いつアメリカに帰るとも言わないもんですから、困ったものです。しかし、あのヒネクレ者も歌陽子さんにだけは心を開いているようで安心しました。」
(でも、本当は気軽にいじれる相手というだけだったりして。)
「そう言えば歌陽子さん、元日の朝に、うちに帰ったらですよ、玄関の前に餅とかお酒とか、塩じゃけとかイクラとか、おせちとか、山積みでしてね。いやあ、ビックリしました。」
「へえ〜っ!それ、まるで笠地蔵ですね。どこかのお地蔵さんに傘をかぶせたりしてません?」
「そんなことではないのですが、紙が置いてあって、ただ『食え!』とだけありましてね。」
「あ、それってもしかしたら?」
「はい、泰造の字でした。あいも変わらず素直じゃなくて困ります。」
そう言って、日登美は笑顔を見せた。
「良かったですねえ。昨日も、『冷戦中だ!』なんて言っていましたが、お父さんからのメールをとても嬉しそうに見せてくれましたよ。」
「いやあ、あれ見たんですか?私としては引導を渡したつもりだったんですけど。」
「またあ、すぐ悪ぶる。息子さんからもキチンと返信あったでしょ?」
「私がいなくなったら、また帰るって書いてありました。早く死ねと言うことでしょうか、困ったドラ息子です。」
「自慢のドラ息子ですね。」
「はは、そう言うことにしておきましょう。」
「きっと今年の年末も帰ってきますよ。そして、何年かぶりに親子でお正月を過ごせますよ。」
日登美は、そこでメガネを外すと、ポケットのハンカチでキュッキュッと拭った。
そして、メガネを外したまま遠い目して、
「そうですね。そうだと有難いですね。」と言った。
しかし、日登美はすぐに表情を変え、
「ところで、歌陽子さんのご自宅に社長が行ったと聞きましたが。」
(なんで、こんなに情報が早いの?)
もう少し日登美との会話の余韻を楽しみたかったが、やはりここはキチンと伝えよう、そう思って歌陽子は後の二人にも呼びかけた。
「あのお、新年早々申し訳ありませんが、前田町さんと野田平さんにも聞いて貰いたいことがあります。」
だが、向かいの机からバサッと言う音を立てて、資料の山が飛んできた。
歌陽子は危うく避けたものの、次に飛んできたのは不機嫌な野田平の怒鳴り声だった。
「うるせえ!バカカヨ!頭に響くだろうが!」
(うわあ、正月中飲んでたんだ。それで二日酔い?ならば、うちで寝てればいいのに。)
「おい、カヨ。」
ジロリと睨んで野田平が言う。
「は、はい、なんでしょうか?」
「今の、全部声に出てたぞ。」
慌てて口を押さえる歌陽子。
「やっばり、てめえ、ろくなこと考えてやがらなかったなあ。とっちめてやる!」
「わあ、ごめんなさい。」
そこに、前田町が割って入った。
「おい、のでえら。」
「なんだ?」
「おめえ、頭は痛くねえのか?」
「は・・・い、痛たた。畜生、思いださせやがって。」
「今年も相変わらずだなあ、おめえは。」
「うるせえ。」
「ところで、嬢ちゃん。話したいことって何だ?」
(危うく忘れるところだった・・・。)
「あの、実は、2日の日に、うちに牧野社長が来られまして・・・。」
「ああ、日登美が言ってたことだろ?知ってるぜ。」
(ど、どこで・・・?ま、まさか?)
「前田町さん、また私のスマホで盗聴したでしょ?」
「さあてな。」
「もう、ホントにやめてください。」
「ふん、あのジジイもなかなかの啖呵を切るじゃねえか。」
「ホントに全部聞いてたんですか?」
「いや、たまたまだ。嬢ちゃんが怖えおっかさんに耳を引っ張られてるとこなんざ知らねえぜ。・・・おっと・・・。」
「前田町さん!もう、スマホ捨てますから!」
「ああ、ああ、すまねえ、今日消しといてやるから勘弁してくんねえ。」
「きっとですよ。」
「ああ、それより嬢ちゃん、三つ巴とはおもしれえじゃねえか。」
「へ?」
「だからよお、嬢ちゃんの小生意気な弟も参戦するんだろ?」
「え、ま、まあ。」
「手強そうか?」
「天才・・・です。それにお父様に頼んで、クラウドソなんとかで技術者を集めていました。」
「クラウドソーシングか。まったくおかしな時代になったもんだぜ。金さえ出せば、人間を切り売りしてくれるってんだからよ。」
「あの、前田町さん。」
「なんだ?」
「勝てますよね?」
「タリメーよ、誰にもの言ってんでえ!」
「だけど、向こうは技術者もお金もどんどんつぎ込んでいます。」
「バカばっかりだよな。こんなチンケなコンテストに本気になりやがって。だが、少しは楽しませて貰えそうだな。
よおし、嬢ちゃん、ここは一つ、明日からでも起動テストといこうじゃねえか!」
しかしそこで歌陽子は、少し申し訳なさそうに、
「あのお、明日申し訳ないんですけど、有給をいただけないでしょうか?」
「ああ?まあ、いいが、普通有給願いは部下の俺らからあんたに出すもんだろ?」
「そ、それはそうですけど・・・。」
(都合のいい時だけ部下になるんだから。)
「おい、嬢ちゃん。」
「は、はい?」
「声に出てるぞ。」
「は・・・!」
また、慌てて口を押さえる歌陽子。
「やっばりか、いつもろくなこと考えてねえんだな。」
(や、やられた、一度ならず二度までも。)
「で?明日何があんだ?」
「あのお、私の・・・そのお21回目のバースデーで。」
「はあ?あんた、そんな誕生日祝って貰う歳じゃねえだろ?」
前田町は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「あの、私じゃなくて・・・周りが大騒ぎするんです!」
その歌陽子の顔には、明らかにうんざりした表情が現れていた。
(#51に続く)
成長とは、考え方×情熱×能力#49
空港
目の回る正月三が日もやっと終わり、新年の始業を明日に控えた4日、歌陽子(かよこ)は空港にいた。
年内を日本で過ごした日登美泰造が今日アメリカに発つ。
その彼を見送りに来たのだった。
国際線の出発ロビー、定刻の1時間前、搭乗手続きを済ませ、小ぶりのショルダーバッグ一つを肩からかけた泰造と、普段着の歌陽子が会話をしていた。
「別に俺は旅行に来ていた訳じゃないし、そんな大きなボストンバッグをいくつも抱えて移動なんかする訳ないだろ?」
「そうなんですけど、どうもアメリカって聞くとそんなイメージがあって。」
「確かに、いろいろ生活に必要なものはあったし、日本の気候に合わせて服も買い込んだけど、年明けてすぐ昔のやつらにただでくれてやったよ。」
「へえ、気前いいんですね。」
「むしろ、人生のキャパを大事にしてるってことかな。だいたい、人間は自分が一度手に入れたものに固執しすぎるんだ。アケミだって、自分の子供が二人とも赤ん坊を卒業しているのに、ベビーベッドをしまってあるんだぜ。旦那に3人目を作るつもりかって聞いたら、『それはもういいや』だってさ。
なのに、もう使わないベビーベッドで家を狭くするなんてあり得ないだろ?」
「うん、でもありそうな話ですね。私の家も、皆んなからはお金持ちだとか、セレブだとか、羨ましいみたいに言われますが、その実お正月の三が日もノンビリできないんですよ。たくさん持っていると言うことは、それだけ管理に手間かかかると言うことですし、お付き合いも増えるから自分の時間が削られるんですよ。」
「世の中の常識は多数派が作るから、金持ちが幸せなんてのも、そうでない圧倒的多数派の意見だったりするんだよな。」
「あはは、言えてますね。」
「だろ?」
「でも、せっかく日本でノンビリできたのに、私たちの用事で忙しくさせてしまって済みませんでした。」
「ああ、いいよ。気分転換に帰っていたんだし、カヨちゃんと一緒にやれて凄く楽しかったよ。いろいろ高いものも食べさせて貰ったしね。」
「そんなたいしたことはしていません。お父様がいろんな会社の株主になっているので、お店の優待券がたくさん送られて来るんです。泰造さんには、こんなにお世話になっているのに、なんにもして上げられていないからせめてのお礼です。」
「うん、気持ちが一番嬉しいな。だけど、あんまりオヤジたちには飲み食いさせないでよ。」
「心得ています。公私はしっかり分けていますから。」
「そう言う固い話より、いつかカヨちゃんがどっかに行った時に、カヨロスがキツイからさ。」
「カヨロスですか?」
「そう、歌陽子ロス。きっと一気に老け込むぜ。」
「そんなあ、ならばもう少し優しく接して欲しいです。」
「子供が好きな子ほど、イジワルをするって奴だよ。あの三人のオヤジは小学生からちっとも成長していないのさ。」
「でも、それは泰造さんも一緒でしょ。」
「ん?あれえ、まだ根に持ってんの?」
「当たり前です。ヤッパリ血は争えないって思いますよ。」
「そうかなあ。」
「そうです。」
「そう言えば、昨日オヤジからこんなメールが来てさ。」
「え、どんなですか?」
「え〜とね、『やっとお前をアメリカに追い返せる。これで、日本の空気が美味くなる』だってさ。ひどいオヤジだろ?」
「へえ〜、で、なんて返したんですか?」
「ホラッ、『オヤジがいなくなって日本の空気が美味くなる頃にまた帰る』、どう?ジョークきいてるだろ?」
「泰造さん、なんか楽しそう。お父さんとすっかり仲直りしたんですね。」
「はあっ?このどこが仲直りしただよ?冷戦継続中だよ。」
「じゃあ、なんでそんなに嬉しそうに私に見せるんですか?」
「いや、それは何だよ。クソオヤジだって見せたかったんだよ。」
「自慢のクソオヤジですね。」
「何とでも言え。」
「ふふふ。」
「もう、この話はおしまいね。」
「はい。でも、泰造さんが帰るといろいろ心配です。」
「だろ?俺がいないと乙女心が疼くだろ?」
「それはありません。」
「キッパリ言うねえ。じゃ何?」
「それは、泰造さんが作ってくれたソフトのことです。まさか不具合はないと信じていますが。」
「つまり、疑っている。」
「いいえ、そんなことはありません。」
「疑いがなければ信じる必要はないだろ?」
「もう、イジワル。」
「大丈夫さ。あのロボットはインターネットにつながっているから、何かあってもすぐオンラインで助けに参りますぞ、安心めされ、姫君。」
「じゃ、ますばひと安心です。」
「あ、そろそろ行かなきゃ。いろいろ有難と。」
「こちらこそ、有難うございました。」
歌陽子は背中を見せた泰造に丁寧にお辞儀をした。
「じゃあね、メガネちゃん。」
そう言って泰造は、保安検査場に姿を消し、歌陽子はそのままずっと頭を下げていた。
ふと振り返って見た泰造は、その歌陽子を見て一言つぶやいた。
「やっぱり日本はいいよな。あんないい娘がいるもんな。」
(#50に続く)